幕府の有力氏族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 00:14 UTC 版)
平安時代末期の治承4年(1180年)の源頼朝による反平家の挙兵に大番役で在京中の当主の小山政光の3男、朝光が馳せ参じている。朝光は頼朝の乳母子にあたり(頼朝の乳母は、八田宗綱の女で朝光の実母の寒河尼であり、政光の後妻)、特に頼朝の信頼は厚かったという。また、弟には遅れたものの政光の長男小山朝政・二男宗政も頼朝陣営に参陣している。寿永2年(1183年)には、常陸国の源頼朝の叔父にあたる志太義広が乱を起こすと、それを野木宮合戦で鎮圧する活躍をみせ、その後の平氏追討戦、文治5年(1189年)の奥州合戦にも小山氏の兄弟は参陣し武功をあげた。 政光のあとは長男小山朝政が継ぎ、弟の宗政が長沼氏、朝光が結城氏を名乗るなど、小山3兄弟はそれぞれに独立した勢力となる。小山氏は嫡流で結城家、長沼家などは庶流として下野国南部地区の一勢力となった。正治元年(1199年)には播磨守護職に任じられるなど、鎌倉幕府内でも重用されていた。文永9年(1272年)二月騒動が起こると4代小山長村の婿にあたる北条時輔が討たれる。これ以降、一時中央の書物から小山氏の記述が見えなくなる。しかし、建治元年(1275年)5月「造六条八幡新宮用途支配事」によれば、鎌倉中小山下野入道跡が120貫納めている。
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