幕府の宿老としてとは? わかりやすく解説

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幕府の宿老として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:20 UTC 版)

斯波義将」の記事における「幕府の宿老として」の解説

幕府管領返り咲いた義将は、管領政所機構整備して権限強化春屋妙葩僧録任命して禅僧統括を図るなどよく義満補佐し室町幕府安定に力をつくした。また斯波氏としても建武以来領国であった越前取り戻し越中畠山基国交換)、義将の弟・義種が加賀守護任じられ弘和2年1382年12月には従四位左兵衛督昇進するなど幕府内で勢力を拡げていったが、頼之の領国伊予没収し河野通堯与えてこれを討伐ようとした計画は、通堯が返り討ち遭ったことや、義満これ以上細川氏への刺激抑えたことによって失敗終わった。 やがて義満将軍権威確立して主導的な執政が行われはじめ、元中6年1389年)に頼之が赦免されると、義将政治的立場微妙なものになり、元中8年1391年)には義将管領辞し領国越前帰国したこの後代わって頼之の弟で養子細川頼元管領となった。 しかし頼之が元中9年1392年)に没すると再び幕政に参与し、翌明徳4年1393年6月からは三度管領に就るなど、義将生涯において執事管領職を5回、延べ18年わたって幕政主導した九州探題今川貞世(了俊)の解任にも関与しているとされる将軍義満出家する追従して出家し道将と号して家督を子の義重に譲った応永2年1395年7月25日正四位下右衛門督昇るそれまで衛門府の督は平家公達や、鎌倉将軍源頼家等を除いて武家任官された例が無かったため、関白一条経嗣その日記『荒暦』において「武臣右衛門督未だ聞かざる事也」と義将右衛門督任官公家社会驚きをもって迎えられたこと記している。 応永6年1399年)に大内義弘挙兵し応永の乱討伐にも義重とともに従軍し軍功をあげた。乱後義満斯波父子働き恩賞として義重に尾張、さらに遠江守護職与えられた。至徳年間からは信濃守護を兼ねていたため、斯波氏越前尾張遠江信濃加賀に及ぶ五州の太守となり、ここに最盛期迎えた。但し、信濃短期間小笠原氏交代領国化はならなかった。

※この「幕府の宿老として」の解説は、「斯波義将」の解説の一部です。
「幕府の宿老として」を含む「斯波義将」の記事については、「斯波義将」の概要を参照ください。

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