幕府の裁定とは? わかりやすく解説

幕府の裁定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 02:58 UTC 版)

万役山事件」の記事における「幕府の裁定」の解説

事件発生から半年ほど経過しても、なお解決糸口さえ見つからないのを憂慮し清末藩主・毛利元平は吉元と共に江戸参勤していたが、正徳6年1716年春に、元次もまた参勤のために江戸上ってきたため、元平はこの機を逃さず萩藩家老右田毛利家毛利広政と共に元次を尋ねて最後説得試みたが、これも失敗終わった。そこで同年4月11日、吉元は幕府へ事の顛末報告し本家対する礼を忘れた次に隠居命じ15歳になる元次の嫡子・百次郎(後の毛利元堯)に家督相続許されるように願い出た老中阿部正喬井上正岑久世重之戸田忠真直ちにこの請願審議したが、吉元の請願通り次の隠居では済ませず、本家反抗した元次は不遜であるとして 徳山藩改易所領萩藩還付、元次の新庄藩お預け嫡子・百次郎、次男・三次郎(後の毛利広豊)及び幸姫毛利元連室)らは萩藩お預け徳山藩家中萩藩において適宜処置することを決定し4月13日には将軍徳川家継許可を受け、達書にて先の決定を吉元へ伝えた請願上の厳し沙汰に吉元も驚いたが、沙汰下された以上致し方がないので、即日諭書を出して徳山藩士が流浪憂き目にあわぬよう尽力する旨を伝え動揺抑えようとした。 同日正午には元次が評定所召され元平と共に出頭したが、評定所到着すると元次一人別室呼び出し大目付松平乗邦から徳山藩改易達書渡され直ち預け先の新庄藩江戸屋敷送られた。その際規定により両刀お預け乗り物には青細引を掛け家臣随行許されなかった。4月15日在府中の三次郎と生母三田徳山藩邸から麻布萩藩邸へ移り徳山藩邸に詰めていた徳山藩士は4月20日から4月22日までに3班分かれて帰国命じられた。その後三田渋谷の両藩邸萩藩接収された。元次の身柄4月22日新庄藩士に護衛され江戸出発し5月1日夕方新庄到着した

※この「幕府の裁定」の解説は、「万役山事件」の解説の一部です。
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