幕府の裁定
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事件発生から半年ほど経過しても、なお解決の糸口さえ見つからないのを憂慮した清末藩主・毛利元平は吉元と共に江戸に参勤していたが、正徳6年(1716年)春に、元次もまた参勤のために江戸に上ってきたため、元平はこの機を逃さず、萩藩の家老で右田毛利家の毛利広政と共に元次を尋ねて最後の説得を試みたが、これも失敗に終わった。そこで同年4月11日、吉元は幕府へ事の顛末を報告し、本家に対する礼を忘れた元次に隠居を命じ、15歳になる元次の嫡子・百次郎(後の毛利元堯)に家督相続を許されるように願い出た。老中の阿部正喬、井上正岑、久世重之、戸田忠真は直ちにこの請願を審議したが、吉元の請願通り元次の隠居では済ませず、本家に反抗した元次は不遜であるとして 徳山藩の改易と所領の萩藩還付、元次の新庄藩お預け、嫡子・百次郎、次男・三次郎(後の毛利広豊)及び幸姫(毛利元連室)らは萩藩にお預け、徳山藩の家中は萩藩において適宜処置することを決定し、4月13日には将軍・徳川家継の許可を受け、達書にて先の決定を吉元へ伝えた。請願以上の厳しい沙汰に吉元も驚いたが、沙汰が下された以上致し方がないので、即日諭書を出して徳山藩士が流浪の憂き目にあわぬよう尽力する旨を伝え、動揺を抑えようとした。 同日正午には元次が評定所に召され、元平と共に出頭したが、評定所に到着すると元次一人を別室へ呼び出し、大目付の松平乗邦から徳山藩改易の達書を渡され、直ちに預け先の新庄藩の江戸屋敷へ送られた。その際、規定により両刀はお預け、乗り物には青細引を掛け、家臣の随行は許されなかった。4月15日、在府中の三次郎と生母が三田の徳山藩邸から麻布の萩藩邸へ移り、徳山藩邸に詰めていた徳山藩士は4月20日から4月22日までに3班に分かれて帰国を命じられた。その後、三田・渋谷の両藩邸は萩藩に接収された。元次の身柄は4月22日に新庄藩士に護衛されて江戸を出発し、5月1日夕方に新庄に到着した。
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