幕府への不満と攘夷親征への危惧とは? わかりやすく解説

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幕府への不満と攘夷親征への危惧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 02:58 UTC 版)

池田慶徳」の記事における「幕府への不満と攘夷親征への危惧」の解説

慶徳は、2月朝廷から摂海守備総督命じられるなど京坂で活動する間も、幕府攘夷期限決定促していたが、大坂湾摂海)や藩地の沿岸警衛策を講じるため3月16日帰国途に就いたこの年から翌年にかけ、鳥取藩では沿岸9カ所の要地西洋式台場築造された。 その後過激尊攘派から期限決定迫られ続けた幕府は、4月23日至り攘夷の儀、五月十日拒絶に及ぶべき」と布告したが、期限前日5月9日生麦事件償金横浜英国公使支払い慶徳憤慨させた。上洛中の家茂名代として江戸にあった実兄水戸藩主徳川慶篤償金支払い経緯に関わっていたと伝えられ、「水戸」に連なることで声望高かった慶徳立場苦しいものにした。挽回のため攘夷路線強化求め周旋方と慎重論唱える保守派確執激しくなっていく。こうした中、大坂天保山守備していた鳥取藩6月大坂湾進入した英国船を砲撃した命中せず英国船は無事脱出)。 幕府朝廷から上洛求められ慶徳は、6月27日本圀寺入った。この時期幕府穏便な姿勢対抗し日本全体での攘夷戦争遂行を望む長州藩が、攘夷親征天下号令するよう朝廷働きかけていた。家茂と幕兵が6月半ばに東帰したことも好都合だった攘夷親征の件について諮問受けた慶徳は、外国畿内襲来したら、まずは幕府防戦尽力し次に公家諸藩様々に戦術尽くすなど親征以前段階を置くべきことを建白した。そして、7月入洛した阿波藩世子蜂須賀茂韶および同母弟の岡山藩主池田茂政4月在洛中の米沢藩主上斉憲と連携し攘夷親征派に対抗する在洛諸侯集団形成した慶徳の論は従兄右大臣二条斉敬朝廷首脳支持を得、諸侯集団朝議への参与許されるまでになる。 それでも長州が藩兵を入洛させたこともあり、朝廷内ではなお親征派の勢い強く要求は緩まなかった。一方孝明天皇朝廷首脳期待寄せ薩摩越前などの挙兵上洛はなかなか実現しなかった。そこで慶徳は、京都守護職松平容保会津藩在京諸藩による天覧馬揃え朝議に諮った。天皇大い喜び会津藩兵による馬揃え7月30日会津鳥取岡山米沢阿波の5藩による馬揃8月5日催された。これは、親征派・反親征双方対す示威であるとともに、やがて生じることになる事態備えた演習役割も果たすことになった

※この「幕府への不満と攘夷親征への危惧」の解説は、「池田慶徳」の解説の一部です。
「幕府への不満と攘夷親征への危惧」を含む「池田慶徳」の記事については、「池田慶徳」の概要を参照ください。

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