幕府への不満と攘夷親征への危惧
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「池田慶徳」の記事における「幕府への不満と攘夷親征への危惧」の解説
慶徳は、2月に朝廷から摂海守備総督を命じられるなど京坂で活動する間も、幕府に攘夷期限の決定を促していたが、大坂湾(摂海)や藩地の沿岸警衛策を講じるため3月16日に帰国の途に就いた。この年から翌年にかけ、鳥取藩では沿岸9カ所の要地に西洋式の台場が築造された。 その後も過激尊攘派から期限決定を迫られ続けた幕府は、4月23日に至り「攘夷の儀、五月十日拒絶に及ぶべき」と布告したが、期限前日の5月9日に生麦事件の償金を横浜の英国公使に支払い、慶徳を憤慨させた。上洛中の家茂の名代として江戸にあった実兄の水戸藩主徳川慶篤も償金支払いの経緯に関わっていたと伝えられ、「水戸」に連なることで声望の高かった慶徳の立場を苦しいものにした。挽回のため攘夷路線の強化を求める周旋方と慎重論を唱える保守派の確執も激しくなっていく。こうした中、大坂の天保山を守備していた鳥取藩は6月に大坂湾に進入した英国船を砲撃した(命中せず、英国船は無事脱出)。 幕府と朝廷から上洛を求められた慶徳は、6月27日に本圀寺に入った。この時期、幕府の穏便な姿勢に対抗し日本全体での攘夷戦争遂行を望む長州藩が、攘夷親征を天下に号令するよう朝廷に働きかけていた。家茂と幕兵が6月半ばに東帰したことも好都合だった。攘夷親征の件について諮問を受けた慶徳は、外国が畿内に襲来したら、まずは幕府が防戦に尽力し、次に公家や諸藩が様々に戦術を尽くすなど親征以前に段階を置くべきことを建白した。そして、7月に入洛した阿波藩世子の蜂須賀茂韶および同母弟の岡山藩主池田茂政、4月来在洛中の米沢藩主上杉斉憲と連携し、攘夷親征派に対抗する在洛諸侯集団を形成した。慶徳の論は従兄の右大臣二条斉敬ら朝廷首脳の支持を得、諸侯集団は朝議への参与を許されるまでになる。 それでも長州が藩兵を入洛させたこともあり、朝廷内ではなお親征派の勢いが強く、要求は緩まなかった。一方、孝明天皇や朝廷首脳が期待を寄せる薩摩・越前などの挙兵上洛はなかなか実現しなかった。そこで慶徳は、京都守護職松平容保の会津藩や在京諸藩による天覧馬揃えを朝議に諮った。天皇は大いに喜び、会津藩兵による馬揃えが7月30日、会津・鳥取・岡山・米沢・阿波の5藩による馬揃が8月5日に催された。これは、親征派・反親征派双方に対する示威であるとともに、やがて生じることになる事態に備えた演習の役割も果たすことになった。
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