天狗党の投降と処刑とは? わかりやすく解説

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天狗党の投降と処刑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)

鳥羽・伏見の戦い」の記事における「天狗党の投降と処刑」の解説

尊王攘夷論鼓吹した後期水戸学大成者で同藩士藤田東湖は、安政の大地震1855年)の際、自宅内にとりのこされた母を助け入って圧死していたが、彼の4男で同藩士藤田小四郎は、父の果たせなかった勤皇の志である尊攘勅命戊午の密勅)を継ごうとする忠孝道徳動機づけられ、1864(元治元)年3月みずからの決起22歳のとき尊攘義勇軍天狗党常陸国筑波山組織した。 前1863(文久3)年、水戸藩士武田耕雲斎当時60歳)は慶喜に侍って京都へ行くと、同4月15日孝明天皇陪食をし、天皇用いた箸をもらった経験もあって、攘夷論者としての天皇間近に感じていた。また、武田は、慶喜烈公遺志たてまつる人物であることも、慶喜から武田宛てた手紙知っていた。武田幕府から、また同藩士田丸稲之衛門山国兵部らは同藩主徳川慶篤から平定命じられ天狗党説得にきたが、小四郎熱意により逆に説得され61歳武田が同党の総大将首領)、59歳田丸22歳小四郎が副大将にされた。天狗党尊王の志から天皇大御心汲んで慶喜通して朝廷訴え攘夷実行しようとしない幕府動かそうとした。御所向かって従軍していた天狗党鎮圧試み幕府軍(藩兵)から攻撃を受けつつ、各地呼応した浪人農民らも加わって1000人ほどの数で越前国敦賀に近づいていた。 しかし、幕府天狗党反乱者とみなし、水戸藩だけでなく諸藩へその鎮圧命じていた上、江戸幕吏らは慶喜天狗党内通疑っていた。慶喜禁裏御守衛総督として家来を討たねばならない板挟み立場置かれ、1864(文久4)年11月30日孝明天皇慶喜願い出ゆるして天狗党処分させた。この頃薩摩藩士・西郷隆盛密使として同藩士桐野利秋武田面会求め小四郎水戸藩郷士竹内百太郎対応すると、桐野薩摩藩士が入京助けるので天狗党一行中山道直進するよう促した。しかし天狗党はこの申し出感謝しながら、慶喜軍と鉢合わせするのを避けるため北へ迂回した同年12月11日天狗党新保宿に着いた時、長州藩密使日本海側回って長州へきて共同行動をするよう勧めてきた。72歳水戸藩士山国兵部はこの案に賛成したが、武田は「主君等しい二公(徳川慶喜と、彼と共に出陣していた弟でのちの第11水戸藩主徳川昭武)に逆らうのは臣子の情に忍びない」とし、越前国敦賀慶喜軍へ恭順投降した12月21日慶喜天狗党降伏状を正式にうけとり23日京都もどった24日から25日にかけ天狗党員らは敦賀3つの寺、本勝寺本妙寺長遠寺収容されたが、地元加賀藩正月迎えると鏡餅差し入れするなど懇切に面倒をみながら、同藩士永原甚七郎は幕府天狗党員の助命嘆願した。1965(慶応元)年1月29日遠江国相良藩主、若年寄・常野浪士追討総括じょうやろうしつとうぐんそうかつ)・田沼意尊慶喜から天狗党ひきうけた田沼はすぐ越前海岸船町にある16棟の828人の天狗党員らを50名ずつ閉じ込め足枷をはめ身動きをとれなくさせた上で、帯や袴などのひも類をすべてとりあげ一日の食事握り飯2、3個だけを与える状態へ追い込むつぎつぎ餓死病死させ、彦根藩士らへ命じてうち352人を斬首、他を島流し追放などに処した。また田沼は、天狗党指導者格の水戸藩士藤田小四郎武田耕雲斎山国兵部田丸稲之衛門ら4名の首を塩漬けにすると水戸送り市中晒した幕吏天狗党員の家族や、彼らに縁のある者らも、80数歳の老婆3歳の子供まで死刑にした。

※この「天狗党の投降と処刑」の解説は、「鳥羽・伏見の戦い」の解説の一部です。
「天狗党の投降と処刑」を含む「鳥羽・伏見の戦い」の記事については、「鳥羽・伏見の戦い」の概要を参照ください。

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