天狗党の投降と処刑
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「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「天狗党の投降と処刑」の解説
尊王攘夷論を鼓吹した後期水戸学の大成者で同藩士・藤田東湖は、安政の大地震(1855年)の際、自宅内にとりのこされた母を助けに入って圧死していたが、彼の4男で同藩士・藤田小四郎は、父の果たせなかった勤皇の志である尊攘の勅命(戊午の密勅)を継ごうとする忠孝道徳に動機づけられ、1864(元治元)年3月みずからの決起で22歳のとき尊攘義勇軍・天狗党を常陸国筑波山で組織した。 前1863(文久3)年、水戸藩士・武田耕雲斎(当時60歳)は慶喜に侍って京都へ行くと、同4月15日に孝明天皇の陪食をし、天皇の用いた箸をもらった経験もあって、攘夷論者としての天皇を間近に感じていた。また、武田は、慶喜が烈公の遺志をたてまつる人物であることも、慶喜から武田へ宛てた手紙で知っていた。武田は幕府から、また同藩士・田丸稲之衛門、山国兵部らは同藩主・徳川慶篤から平定を命じられ天狗党を説得にきたが、小四郎の熱意により逆に説得され、61歳の武田が同党の総大将(首領)、59歳の田丸と22歳の小四郎が副大将にされた。天狗党は尊王の志から天皇の大御心を汲んで、慶喜を通して朝廷へ訴え、攘夷を実行しようとしない幕府を動かそうとした。御所へ向かって従軍していた天狗党は鎮圧を試みる幕府軍(藩兵)から攻撃を受けつつ、各地で呼応した浪人や農民らも加わって、1000人ほどの数で越前国敦賀に近づいていた。 しかし、幕府は天狗党を反乱者とみなし、水戸藩だけでなく諸藩へその鎮圧を命じていた上、江戸の幕吏らは慶喜と天狗党の内通を疑っていた。慶喜は禁裏御守衛総督として家来を討たねばならない板挟みの立場に置かれ、1864(文久4)年11月30日、孝明天皇は慶喜の願い出をゆるして、天狗党を処分させた。この頃、薩摩藩士・西郷隆盛の密使として同藩士・桐野利秋が武田に面会を求め、小四郎と水戸藩郷士・竹内百太郎が対応すると、桐野は薩摩藩士が入京を助けるので天狗党一行へ中山道を直進するよう促した。しかし天狗党はこの申し出に感謝しながら、慶喜軍と鉢合わせするのを避けるため北へ迂回した。同年12月11日、天狗党が新保宿に着いた時、長州藩の密使が日本海側を回って長州へきて共同行動をするよう勧めてきた。72歳の水戸藩士・山国兵部はこの案に賛成したが、武田は「主君に等しい二公(徳川慶喜と、彼と共に出陣していた弟でのちの第11代水戸藩主・徳川昭武)に逆らうのは臣子の情に忍びない」とし、越前国敦賀で慶喜軍へ恭順・投降した。12月21日、慶喜は天狗党の降伏状を正式にうけとり、23日京都へもどった。24日から25日にかけ天狗党員らは敦賀の3つの寺、本勝寺、本妙寺、長遠寺に収容されたが、地元の加賀藩は正月を迎えると鏡餅を差し入れするなど懇切に面倒をみながら、同藩士・永原甚七郎は幕府へ天狗党員の助命を嘆願した。1965(慶応元)年1月29日、遠江国相良藩主、若年寄・常野浪士追討軍総括(じょうやろうしついとうぐんそうかつ)・田沼意尊は慶喜から天狗党をひきうけた。田沼はすぐ越前海岸の船町にある16棟の鰊蔵に828人の天狗党員らを50名ずつ閉じ込め、足枷をはめ身動きをとれなくさせた上で、帯や袴などのひも類をすべてとりあげ、一日の食事も握り飯2、3個だけを与える状態へ追い込むとつぎつぎ餓死・病死させ、彦根藩士らへ命じてうち352人を斬首、他を島流し・追放などに処した。また田沼は、天狗党指導者格の水戸藩士・藤田小四郎、武田耕雲斎、山国兵部、田丸稲之衛門ら4名の首を塩漬けにすると水戸へ送り、市中に晒した。幕吏は天狗党員の家族や、彼らに縁のある者らも、80数歳の老婆や3歳の子供まで死刑にした。
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