国外での独立運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:30 UTC 版)
「韓国光復軍」、「朝鮮義勇隊」、および「通化事件」を参照 三・一運動が日本軍の前に敢え無く鎮圧されたことから独立運動家達は請願や示威運動よりも武力による打倒を重視し、満州で独立軍を結成して武装闘争を開始した。しかし独立軍も1920年末には日本軍の軍事力の前に無残に敗退し、ソ連領に逃げざるをえなかった。 この経験から武力闘争にしても近代戦に精通した軍人の必要性を感じ、優秀な若者を中国各地の軍官学校に派遣する計画を立てそれを実行した。これには金九や呂運亨などが関わっており、韓国臨時政府も積極的に支援した。黄埔軍官学校では、第3期に4人、第4期に24人、第5期に6人、第6期に9人、第7期に1人が入学した。これら韓籍学生の多くは国民革命軍の北伐や中国共産党の広州起義に参加した。中国軍将校として北伐従軍後に一部は脱隊して東北部の独立軍に参加した。また軍に残った者も独立運動を支援した。例えば第4期生の金鍾、李集中、楊倹、盧一龍、朴健雄、李愚懿、呉世振、労世芳は朝鮮民族革命党や朝鮮義勇隊の骨幹要員となり、第5期生の朴始昌や申岳も後に朝鮮義勇隊や光復軍に参加、張興は中国軍憲兵機関に勤務しながら独立運動家の通信連絡工作に携わっていた。また上海天長節爆弾事件で使われた爆弾は、当時中国軍で兵器を管理する将校であった金弘壹が金九側に提供した物だった。 1932年、中国政府の支援で、金元鳳ら朝鮮民族革命党が幹部訓練班第6隊を朝鮮革命幹部学校として運営し、第1期生および第2期生80名に対して教育を行った。その他に1935年には康澤(中国語版)を主任とする中央陸軍軍官学校特別班に、敵後方の工作訓練を目的として84名が入学し、朝鮮義勇隊の骨幹要員となった。 また中国政府は臨時政府も支援し、1932年、中央陸軍軍官学校洛陽分校軍官訓練班第17隊に92名が入学した。1935年には韓国独立軍特務隊予備訓練所が設置され28人が教育を受けた。これらの学生は韓国光復軍の骨幹となった。 日本が、1931年9月に満州事変を起こし、同年末までに満州全土を占領すると、在満の独立運動家達は直ちに武装し、日本軍と対峙した。先に 梁世奉や池青天など民族主義者達が導いた朝鮮革命軍と韓国独立軍は、中国人達と提携し日本軍に戦闘を挑んだが、連戦連敗を続け、万里の長城以南への後退を余儀なくされた。一方、社会主義者達は1932年春に朝鮮人が多く住んでいた満州を中心とした多くの地域で遊撃隊を結成して、抗日闘争を展開した。[要出典] 1937年に日中戦争が勃発すると、金元鳳や尹世冑、韓斌、金学武など約130名が中国国民党から公式に支援を取り付け、1938年10月に朝鮮義勇隊を創設した。朝鮮義勇隊員には中国語・朝鮮語・日本語に堪能な者が多かったことから、日本軍の捕虜に対する尋問や対敵心理戦、敵後方での諜報及び工作活動に携わるケースが多かった。朝鮮義勇隊の主力部隊は、1941年春に黄河を渡って朝鮮人が多く暮らす華北地方に活動の拠点を移した。[要出典]華北に移った義勇隊員達は、八路軍と協力して胡家荘戦闘や反掃討戦など多くの戦闘に参加した[要出典] 嘉興・杭州・長沙などを転々とした大韓民国臨時政府は、1940年に重慶に安着したが、同年9月に幹部12名で韓国光復軍を創設した。 この通り、光復軍は一度も日本と交戦することの無いまま、日本の降伏を迎えることとなった。そのことから、金九は日本が降伏したとの一報を耳にした際、天を仰いで長嘆息した後、「韓国軍は、日本軍を打ち破ることは一度もなかった。私は日本軍を撃滅して、わが同胞を解放したかった。最後まで、日本軍に制圧されたままの解放なんて、結局何もなるまい。日本帝国はひとたび滅びても、より逞しく再建されるだろう。その時日本人は、庚戌国変の時より残酷に我々を奴隷にするだろう。その時、わが同胞は日帝と闘う気力を持っているか。自力で日帝から解放することも出来なかったわが同胞に、とてもそんな力があるとは思えない」と嘆いたと伝えられている。 1946年2月3日の通化事件の際には朝鮮人民義勇軍は東北民主連軍と協力して、中華民国政府と日本人の蜂起を鎮圧することに成功した。鎮圧後には日本人数千人を処刑し以後通化における日本人の蜂起はなくなった。
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