かんぶ‐がっこう〔‐ガクカウ〕【幹部学校】
幹部学校
幹部学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 04:49 UTC 版)
「ヘンリー・ヒューズ・ウィルソン」の記事における「幹部学校」の解説
1888年ヘンリーは、結婚を考えている間に幹部学校に入る勉強を始めたが、恐らくそれは、幹部学校に出席することが、厳しい連隊に勤務するより安上がりなだけでなく、昇進の可能性も開かれていたからである。この時ヘンリーは、6,000ポンドの信託財産から年間200ポンドの個人収入を得ていた。1888年の末に、ヘンリーは外国でなく本国の勤務に合格し、1889年初めにドーバーの第2大隊に加わった。 ヘンリーは、1889年にホワイツ紳士クラブ(英語版)のメンバーに選ばれた。その当時のメンバーの名簿は残っていないが、長兄のジェミーが1894年にブルックス紳士クラブ(英語版)に選ばれた際、その提案者と支持者はロンドンにいる英国とアイルランドのエリートの有名なメンバー達だった。 ヘンリーは、オールダーショットへの派遣後、1890年5月にベルファストに派遣され、1891年5月に幹部学校の第15期(全25期中)にヘンリー・ローリンソン大尉より数点よい成績で合格した。フランス語とドイツ語は彼の最も良くない科目だったが、1892年1月にそこで勉強を始めた。ヘンリーは、陸軍に入るために苦労はしたが、試験に合格したことで頭が悪いわけではないことを証明した。 1893年8月、ヘンリー・ヒルドヤード(英語版)大佐が幹部学校の校長になって改革を始め、試験よりも屋外活動を含む継続的評価により重きを置くようになった。ヘンリーはまた、ジョージ・ヘンダーソン(英語版)大佐の下でも学び、大佐は学生達に彼らが司令官に就任した時にどうすべきかを問い、軍事史について考えることを奨励した。 幹部学校にいる間、ヘンリーは1893年3月に普仏戦争の戦場を訪れている。ローリンソン大尉とトーマス・スノウ(英語版)は、しばしば勉強仲間となり(アイルマー・ホールデイン(英語版)(後の将軍)も自身の1948年刊行の自叙伝で仲間だったと主張しているが、これはヘンリーの日記では裏付けられていない)、ランスロット・キゲル(英語版)(後の陸軍中将)は、下の学年だった。ローリンソン大尉とヘンリーは親友となって、しばしば一緒に過ごし、社会活動に参加したが、ローリンソン大尉は1893年5月にヘンリーをフレデリック・ロバーツ卿(英語版)(将軍。後の元帥)に紹介し、両者がインド防衛計画 に取り組んでいる間にヘンリーはロバーツ卿の子飼いの部下となった。
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