大韓民国臨時政府
別名:大韓民國臨時政府、대한민국 임시정부
英語:Provisional Government of the Republic of Korea、Provisional Government of Korea
日本統治時代の朝鮮で1919年に起こった三・一運動を契機として設立された、朝鮮の亡命政府。李承晩や金九らの活動家により、中国の上海において設立された。設立当初、李承晩が大統領に就任し、その後金九や李東寧などが大統領や国務総理(首相)を務めた。
大韓民国臨時政府は、設立当初から朝鮮の独立を目的として、抗日武装闘争と称し、宣伝活動やゲリラ闘争などを行ってきた。例えば、1932年に日本で起こった昭和天皇の暗殺未遂事件(桜田門事件)の犯人は、大韓民国臨時政府が組織した抗日武装組織の一員だったことが明らかになっている。1933年に大韓民国臨時政府は、中国国民党の蒋介石と抗日共同戦線を張ることで合意した。その後、日中戦争が勃発すると、大韓民国臨時政府は上海を離れ、杭州、南京、広州など各地を転々としたのち、最終的に重慶を拠点とした。
韓国では、大韓民国臨時政府が1941年12月9日に日本とドイツに対して宣戦布告を行ったとして、それを根拠に韓国が第二次世界大戦の戦勝国に含まれるとする主張がなされることがある。しかし、大韓民国臨時政府の宣戦布告は当時、日本およびドイツには伝わらず、臨時政府軍が日本軍と交戦した記録もないことから、一般的には韓国は戦勝国とは見なされていない。また、宣戦布告自体も国際法上の効力を持たないとされている。
韓国政府は韓国を大韓民国臨時政府の正統な後継者として捉えており、憲法の前文でもその旨が明記されている。しかし、大韓民国臨時政府は2014年現在に至るまで、日本や連合国を含むいかなる国家にも承認されておらず、国際的には亡命政府として認められていない。
2014年に韓国の朴槿恵大統領が、対中関係の強化を表明したことに関連して、上海の大韓民国臨時政府跡地の観光地としての人気が高まっていると報道された。また、2014年3月に行われた中韓首脳会談で、中国の習近平国家主席は、韓国政府の要請に応える形で、大韓民国臨時政府の軍事拠点の一つであったとされる西安に記念碑を建立する事業を進めていることを述べた。
大韓民国臨時政府
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大韓民国臨時政府(だいかんみんこくりんじせいふ、朝鮮語ハングル表記: 대한민국 임시정부、朝鮮語チョソングル表記: 상해림시정부[1])は、1919年(大正8年)の日本統治時代の朝鮮で起こった三・一運動後、海外で朝鮮の独立運動を進めていた活動家李承晩・呂運亨・金九らによって、中華民国の上海市で結成された朝鮮民族の組織である。中国国民党支援を受けるために国民党傘下に属し、軍事さえも1945年5月まで国民党の中国軍事委員会の下部組織であった。そのため、国民党と共に日中戦争勃発後は所在地を上海から重慶に移した。たえまない党派間の対立と連合を続けていたため、蔣介石や国民党が党派間の融和や指導を行っていた[2]。戦後の国共内戦後に中国国内では「光復軍は中国共産党の支援を得て重慶に設立された」と改変されている[3]。1945年、アメリカ軍政庁により解体された。
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大韓民国臨時政府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
かつて独立協会に参加した李承晩は、高宗の使者として渡米したことがきっかけでアメリカへ留学する。李承晩はウッドロウ・ウィルソンと親交し、日韓併合条約後は上海で大韓民国臨時政府の初代大統領となった。やがて李承晩は内紛により臨時政府を離れ、日中戦争が起きると金九が指導する臨時政府は重慶へ移って、蔣介石の中国国民党と協力した。李承晩は韓国を国際連盟の委任統治領にする要請をしており、韓国の独立のためにはアメリカの支援が不可欠とも考えた。このために即時独立を目指す独立運動家からは反発を受けたが、日本の降伏によって李承晩の主張に近い形で韓国が解放されて評価を高めた。李承晩の亡命生活は通算40年におよび、大戦後に帰国して大韓民国を建国する。
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大韓民国臨時政府
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1910年、大韓帝国は日本に併合された(韓国併合)。1911年に105人事件が起き、キリスト教への弾圧が強まる中、1913年に中国へ亡命。暫くは華北で商業や貿易に従事しながら呂運亨や申圭植と独立運動に関わり、上海で新韓青年党を結成した。 新韓青年党は、在米亡命者団体とも連絡しながら、1919年1月からはじめられるパリ講和会議を目標に、民族自決を訴える代表者派遣工作をすすめた。金奎植はパリに派遣され、講和会議に朝鮮を代表する形で出席しようとしたが、正式な政府の資格が無いとして拒否された。同年3月の三・一運動を受け、4月に上海で大韓民国臨時政府が樹立されると、金奎植はパリ駐在の外務総長・欧米外交委員会代表に任命され、独立運動のための資金調達や独立への支持を訴える宣伝に従事した。しかし、6月にパリ講和会議は朝鮮の民族自決を論じることもなく閉幕した。 1920年、上海に戻り、臨時政府の学務総長に就任。徐丙浩と共に在華朝鮮人学生への教育支援を行った。また、ソビエト連邦との提携を模索、1921年に任臨時政府の学務部長、 1922年には極東諸民族大会に出席する。しかし臨時政府は活動方針をめぐって混乱を増した。金奎植は臨時政府を一旦解散して新たな政府を樹立しようとする「創造派」の指導者の一人であり、「韓国政府」を結成してシベリアに移したが、立ち消えた。1925年に日ソ国交が成立すると、ソ連の支援で活動していた活動家は軒並み支援を絶たれ、金奎植もソ連から国外退去の憂き目に遭う。 この後、金奎植は朝鮮人独力で独立を勝ち取ることを決意し、機関誌『東方民族』を根城に右派と左派に分裂していた独立運動の合作を訴えた。その後、1933年 任臨時政府の学務部長、1934年に臨時政府国務委員、1940年に臨時政府副統領を務める。1942年10月臨時政府の宣伝部長, 1944年4月副統領の在選。
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大韓民国臨時政府
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「大韓民国 (年号)」の記事における「大韓民国臨時政府」の解説
中華民国上海市で成立した大韓民国臨時政府は、1919年4月11日に、"大韓民国元年4月11日"と表記した大韓民国臨時憲章を公布、公式な紀年法として採用し、臨時政府が作成する公文書のほか、韓人愛国団、韓国光復軍など関連機関でも使用された、としている。
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