回天誕生
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1942年(昭和17年)5月下旬から6月上旬のミッドウェー作戦に、黒木の乗艦する「山城」は、連合艦隊司令長官山本五十六大将と第一艦隊司令長官高須四郎中将が率いる力部隊(戦艦部隊)として内地を出撃した。ミッドウェー島に向け航行中の6月1日付で黒木は海軍機関少尉に任官し、引き続き「山城」乗組を命じられた。6月5日のミッドウェー海戦で、日本海軍は主力空母4隻を喪失する。「山城」は全く戦局に寄与できず、燃料を消費しただけで呉に引き揚げた。大艦巨砲主義に完全に見切りをつけた黒木は、潜水艦勤務を熱望するようになった。 7月15日、山城乗組を免ぜられ、呉鎮守府付となる。山城機関科分隊の部下は、黒木との別離を惜しんで涙で見送ったという。黒木は海軍潜水学校の普通科学生として採用された。真珠湾攻撃の特殊潜航艇による片道攻撃(九軍神)に感銘を受けていた黒木は、甲標的搭乗員を熱望して血書を送り、配置転換を実現した。 詳細は「甲標的」を参照 同年12月に特殊潜航艇「甲標的」講習員(第6期)となる。倉橋島の特潜訓練基地(P基)で訓練や、甲標的の改良に励んだ。1943年(昭和18年)4月1日から翌19年3月末まで、黒木は自らの血液で「鉄石心」という日記を書いた。同年10月、黒木は仁科関夫中尉(海兵71期)と同室となる。二人は「魚雷を人間が操縦し、敵艦への命中率を高くする」という、後の「回天」の原型となる人間魚雷を発案した。同時期、甲標的母艦であった特殊艦「千代田」は軽空母に改造され、もう1隻の甲標的母艦「日進」は同年7月下旬にソロモン諸島で沈没、甲標的が活躍できる場面は限定されつつあった。11月末、黒木は私淑する平泉の下を訪問し「艦政本部へ重大進言の為割腹する」と別れを告げたが、説得により思い留まった。引き続き黒木や仁科は必死兵器開発を嘆願するが、同年12月28日に永野修身軍令部総長から「それはいかん」と却下された。なお黒木は海軍上層部や指導層に対して批判的で「中央の怠慢は国賊というの外なし」と言い切っている。また人間魚雷だけで戦局を変えられるとは考えておらず、海軍全体に特攻精神を徹底するほか勝ち目はないとしていた。 当時の日本海軍は、ブーゲンビル島の戦いやマーシャル諸島失陥によって、連合軍に圧倒されつつあった。特に1944年(昭和19年)2月17日と18日のトラック島空襲で、航空機と輸送船に壊滅的打撃を受けた。2月26日、遂に中央は海軍工廠魚雷実験部に対して黒木・仁科両者が考案した人間魚雷の試作を命じたが、同時に「乗員の脱出装置が無いのでは(兵器として)採用しない」との条件が付された。それでも黒木・仁科両者はその条件を受け入れたことで試作は続行され、同年4月には試作された人間魚雷に「○6(マルロク)」の仮名称が付き、艦政本部では担当主務部を定めて特殊緊急実験が開始された。同年6月、「急務所見」と題する血書の意見書を作成し、海軍上層部に提出した。こうして同年7月に試作機が完成し、即刻大入島発射場で試験が行われたが、条件として付いた「乗員の脱出装置」が未完成だった為に装備されなかった外、試験終了後に兵器として採用する為に新たな問題点が幾つか挙がったが、これらの課題は結局終戦まで未解決のまま、則ち発進すれば生還不可能・必死必殺の特攻兵器となった。 同年7月10日、日本海軍は特殊潜航艇と人間魚雷(回天)の訓練研究・乗員養成を目的とする「第一特別基地隊」を新編した(司令官長井満少将)。黒木、仁科、両名とも第一特別基地隊に配属された。同年8月1日、米内光政海軍大臣によって正式に日本軍の兵器として採用され、黒木・仁科両者の考案は最終的に認められた事となった。 詳細は「回天」を参照 1944年(昭和19年)8月15日、大森仙太郎特攻部長は「この兵器(回天)を使用するべきか否かを、判断する時期だ」と発言、明治維新の船名からこの兵器を「回天」と命名した。そして同年9月1日、山口県大津島に黒木・仁科と板倉光馬少佐が中心となって「回天」基地が開設され、全国から志願で集まった搭乗員で9月5日から本格的な訓練が開始された。
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