古代末期
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古代末期(こだいまっき、英語: Late Antiquity, ドイツ語: Spätantike, フランス語: Antiquité tardive)は、ヨーロッパ史における時代区分で、古典古代から中世(中世初期)への変遷の説明に用いられる。
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注釈
- ^ キリスト教的君主制の絶対主義的傾向に対する同時代のイスラームの特質への一見解について以下を参照。Garth Fowden, Empire to Commonwealth: Consequences of Monotheism in Late Antiquity, Princeton University Press, 1993.
- ^ オックスフォードのピーター・ヘザーが発展させた近年の一仮説は、ゴート族、フン族の帝国、そして406年の侵略者たち(アラン族、スエヴィ族、ヴァンダル族)のライン河越えを、西ローマ帝国衰退の直接的原因と仮定している; The Fall of the Roman Empire: a New History of Rome and the Barbarians, OUP 2005.
出典
- ^ a b Brown, Bowersock, Graber, Late Antiquity: A Guide to the Postclassical World (Harvard University Press Reference Library) 1999年
- ^ a b c d e f g h i j k 南雲泰輔「英米学界における「古代末期」研究の展開」西洋古代史研究 = Acta academiae antiquitatis Kiotoensis (2009), 9: 47-72,2009-12-01
- ^ ミハイル・ロストフツェフ『ローマ帝国社会経済史』東洋経済新報社 (2001)上下
- ^ A. Giardina, “Esplosione di tardoantico,” Studi storici, 40 (1999).
- ^ 南雲 2016, pp. 11-24.
- ^ グレン・バウアーソック Glen W. Bowersock, “The Vanishing Paradigm of the Fall of Rome,” Bulletin of the American Academy of Arts and Sciences, 49. 8 (May 1996) p.34.
- ^ 南雲 2016, pp. 24-31.
- ^ 南雲 2016, pp. 198-199.
- ^ パーキンス 2014.
- ^ Eusebius of Caesarea, Vita Constantini, 3.5-6, 4.47.
- ^ Brown, Authority and the Sacred.
古代末期
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「ネオプラトニズムとキリスト教」の記事における「古代末期」の解説
悪の起源である善の欠如(en:privatio boni)や、その善の欠如が人間の罪に由来することといったネオプラトニズムの中心教義は、ヒッポのアウグスティヌスによって、彼のマニ教からキリスト教への遍歴の上で一時的に哲学的問題として扱われたのみであった。おそらくもっと重要なことに、プロティノスやポルピュリオスの著作において強調されている、神つまり一者と出会うための手段としての神秘的瞑想はアウグスティヌスに深く影響した。アウグスティヌスはその著書「告白」において、明らかにネオプラトニズムのモデルに従っている少なくとも二つの神秘的体験について述べている。「告白」第7巻の「プラトニストの書」という節で彼が重要な発見をしたと述べているところによれば、アウグスティヌスは霊的実体としての神及び人の魂の概念をネオプラトニズムに負っている。 387年に改宗して数年後に「真の信仰について」という論文を書いて、アウグスティヌスのキリスト教はネオプラトニズムによってさらに磨き上げられたが、最終的にアウグスティヌスはネオプラトニズムを完全に放棄して自身の聖書解釈に基づいたキリスト教を選んだ。 他にも多くのキリスト教徒が、特にネオプラトニズムの一者つまり神をヤハウェと同一視することによってネオプラトニズムから影響を受けた。その中で最も影響力があったのはアンモニオス・サッカスから教えを受けたかもしれないオリゲネス(後世に異教徒のオリゲネスと呼ばれる人物がアンモニオス・サッカスから教えを受けたオリゲネスだったかもしれないのでこれは確実ではない)や、偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテースの名で知られる5世紀後半の著述家であろう。 ネオプラトニズムはグノーシス主義ともつながりを持ったが、プロティノス自身は著書「エンネアデス」第2巻第9論文においてグノーシス主義を非難している。「エンネアデス」第2巻第9論文には「宇宙の創造者や宇宙それ自体が悪であると主張する者どもに抗して」(一般的には「グノーシス主義者らに抗して」として知られる)という表題がつけられている。 ネオプラトニストらは自分たちがプラトンの思想に基づいていると信じていたために、プラトンがティマイオスで論じた、物質的世界つまりコスモスの創造者であるデーミウルゴスに対するグノーシス主義者たちの中傷を拒絶した。John D. Turner教授のような学者はネオプラトニズムを正統派プラトン哲学と呼んできたが、これは部分的には、プロティノスが「エンネアデス」を通じてプラトン哲学の定まった解釈を論駁しようとしたことによるのかもしれない。プロティノスはグノーシス主義者たちが本来のプラトンの教説を崩壊させたと信じていた。 こういった哲学がキリスト教に影響を与えたにもかかわらず、ユスティニアヌス1世は再建されたアカデメイアを529年に閉鎖することによって後期ネオプラトニズムに損害を与えた。アカデメイアが閉鎖されたのに続いて、世俗的なコンスタンティノープル大学が開学した。コンスタンティノープル大学はこれ以前は公式には大学と呼ばれなかったが、実質的には425年にマグナウアの宮殿広間の大学として創建されていた。コンスタンティノープル大学は大学と呼ばれる前から長年にわたって学術的な公共機関であった。元々の機関はテオドシウス2世によって作られた。
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