加悦鉄道
加悦鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 20:58 UTC 版)
山間部が連なる地形のために耕地に恵まれない加悦谷で、人々の暮らしを支えてきたのはひとえにちりめんだった。ちりめんは価格変動が激しかったため、大きな市場をもつ京阪神へ迅速に輸送することは産地にとって重要な課題だった。江戸時代には大江山を超えて飛脚が届けたちりめんは、1899年(明治32年)に阪鶴鉄道が福知山まで開通するとそこから先は汽車に乗り、1904年(明治37年)に官設鉄道が新舞鶴まで開通すると福知山ルートの他に、宮津から船で舞鶴へ行き、そこから汽車を利用する手段がとられた。 1892年(明治25年)に「鉄道敷設法」が公布されると、丹後一帯のちりめん業者が中心となり、丹後地方を山陰線の通過ルートとするよう熱心に誘致運動を行ったが、実現には至らなかった。1916年(大正5年)、京都府は国鉄の通らなかったこれら地域で、府費による測量を行った。宮津では丹後鉄道期成同盟会が組織され、早期実現を請願、1919年(大正8年)に舞鶴から宮津・峰山を経て豊岡に至る今日の宮津線ルートが着工したが、ここでも加悦谷の機業の中心地である南部6カ村を通過することはなかった。加悦谷地域のちりめん業者は粘り強く交渉を続け、1921年(大正10年)には「京都府山田ヨリ兵庫県出石ヲ経テ豊岡ニ至ル鉄道(山豊線)」建設案が衆議院本会議で可決されたものの、貴族院の反対により不成立となる。さらには1922年(大正11年)、鉄道敷設法の改正によりついに山豊線が官営鉄道の候補にあがり、測量が行われたが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で保管されていた現地測量図や関係資料の一切が失われたことで、計画は白紙に戻されてしまう。再検討後の鉄道敷設計画では加悦まで鉄道が来ないことを知った地元住民は、鉄道省に請願して経験のある技師を派遣してもらい、線路の延長距離とかかる経費を算出させた。その結果、総工費見積額は343,894円、車輌や軌条を鉄道省払い下げの中古品で賄えば25万円で全長5.3キロの鉄道建設が可能という結論を得ると、町民823名が出資して、資本金30万円(現在の価値で約1億8200万円)の加悦鉄道株式会社を設立した。1926年(大正15年)3月27日に工事契約が成立、待ち望まれた鉄道は4月10日の着工からわずか数カ月で完成し、12月5日に開通した。後年には大江山のニッケル鉱山から鉱石を運んだことで知られるようになる加悦鉄道だが、もともとは丹後ちりめんの出荷のために建設・運行したものであった。 加悦鉄道の建設は、近世以来の加悦の町並みに初めて近代的な都市計画がもたらされた最初の事業であり、多額の固定資産を要する事業を基本的に住民の手だけで成し遂げたという2点において、町の歴史のなかで特筆すべきこととして伝えられている。 鉄道開通からわずか3ヶ月後の1927年(昭和2年)3月7日、丹後地方はマグニチュード7.3の北丹後地震に見舞われ、各地で壊滅的な被害を被る。開通したばかりの加悦鉄道も例外ではなく、岩屋地区から宮津市府中地区までの「山田断層」の北側が最大70センチメートル隆起し東へ80センチメートル移動した影響で、駅舎の倒壊や線路築堤の陥落が発生し、電話線の電柱は全線にわたり傾き、鉄道員2名の死者もでた。復旧には1万7千円を要したが、ただちに行われ、6日後には運行を再開して、救援物資の輸送に大いに貢献した。 加悦鉄道は、各地から中古車両をかきあつめて運行されたため、今日では希少な車輌が多く使われ、残されている。当時の駅舎や蒸気機関車が日本遺産「丹後ちりめん回廊」を構成する文化財のひとつに数えられ、1873年(明治6年)に製造された日本で2番目に古いとされる蒸気機関車(2号蒸気機関車。旧123号)は、2005年(平成17年)に車暦簿(機関車台帳)とともに国の重要文化財に指定された。近年では、映画『海賊とよばれた男』の撮影にも使用された。
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