町の歴史(近現代)
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1914年6月 豊肥本線が開通、三里木駅開業 1920年7月 原水駅開業 1971年4月 熊本空港開港 1987年3月 サンリー菊陽寿屋開業 1992年4月 菊陽バイパス開通 1998年6月 さんさん公園開園 1999年3月 国体道路南北線・東北線開通 2001年10月 ソニーセミコンダクタ九州熊本工場稼動 2002年1月 新免許センター開業 2002年5月 寿屋破綻により、サンリーの営業がジャスコに引き継がれる 2004年4月 人口3万人突破 2004年6月 ゆめタウン光の森開業 2004年10月 熊本北郵便局開業(菊陽郵便局の局種改定・移転) 2006年10月 富士フイルム九州新工場稼動 2015年4月 人口4万人突破。
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町の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 07:53 UTC 版)
マリーエンブルクの町は、城の近くに発展した。地形は平坦なため、ノガト川を利用した水運で、100km離れた海との接続も良好であった。ドイツ騎士団によるプルーセン支配時代、騎士らは川を行き交う船から通行料を徴収し、琥珀貿易の独占権を持っていた。町は後にハンザ同盟に加盟し、多くの同盟の会合が開かれた。 十三年戦争の最中の1457年に城がポーランド王へ売却されるとドイツ騎士団はこの地を離れた。町長バルトロメウス・ブルーメ(Bartholomäus Blume)が代表を務めるマリーエンブルクの町とその他の者たちは、ポーランド王国の庇護を得てドイツ騎士団に反旗を翻したドイツ人プロイセン連合に3年以上も抵抗した。最終的にはポーランド王国とプロイセン連合の同盟側が町を手中に収め、ブルーメはプロイセン連合により絞首刑にされた上、八つ裂きにされた。1864年には、ブルーメを記念した記念碑が建てられた。 町は1466年の第二次トルンの和約後、王領プロイセンの県となったが、1772年にポーランド分割が行われると、町はプロイセン王国領となり、その年のうちに西プロイセンの一部となった。1871年はプロイセンを盟主にドイツ帝国が成立する。 第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約によって住民たちはドイツに残留するか、新設のポーランド共和国に加わるか、1920年7月11日の国民投票でその是非を問われることになった。17,805票のドイツ残留支持と191票のポーランド併合票の結果、マリーエンブルクは東プロイセンのマリーエンヴェルダー県(de:Regierungsbezirk Marienwerder)となった。第二次世界大戦の連合国側勝利とポツダム宣言により、マリーエンブルクはポーランドとなり、名称もポーランド語のマリボルクとなった。全てのドイツ人住民は追放された。
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