中国での例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 16:06 UTC 版)
宰相を意味する「相邦」が漢の劉邦の諱である「邦」の字を含むことから、漢代以降は「相国」に改称された(これについては、漢より後の王朝も「相邦」に戻さなかった。) 楚漢戦争の説客、蒯通の諱は「徹」であったが、前漢武帝劉徹の諱を避けて「徹」と同義の「通」に差し替えられた(漢代以降も訂正されずに定着している)。 前漢の郷挙里選の科目には秀才があったが、後漢では光武帝劉秀の諱を避けて、「茂才」となった。 司馬遷撰『史記』・班固撰『漢書』では、前漢の歴代の皇帝の諱をそれぞれの本紀(皇帝の伝記)に記載しなかった。両書とも、後世の注釈で初めて諱が記載された。 後漢の許慎は建光元年(121年)に『説文解字』を完成させた。同書においては、後漢初代光武帝から当代の安帝までの各皇帝の諱(秀、荘、炟、肇、祜)は、「上諱」とのみ記せられ本義の解説はなされていない。 西晋及び東晋では、司馬師(追号:世宗景帝)の「師」を避け、「京師」を「京都」と言い換えた。 東晋の都、建康の名称はもともと「建業」であったが、西晋の愍帝司馬鄴の諱を避けて「建康」と改められた。 東晋の書家王羲之は、祖父王正の諱を避け、「正月」と記するところを「初月」と書いた(『初月帖』など)。 唐代においては、太宗(李世民)の諱である「世」と「民」が公には使用できなかった。太宗は避諱を免ずる詔を出したものの、後裔や臣下は厳に使用を避けた。そのため、300年近くにわたって代用字として使用された「代」や「人」の方が一般的になり、後代にまで影響を与え続けた。サンスクリット仏典のAvalokiteśvara(観音菩薩)を漢訳するにあたり、東晋時代の鳩摩羅什は観世音菩薩と訳した(旧訳)が、唐の玄奘は観自在菩薩と訳した(新訳)。しかし、後代では「観自在」より「観音」とされることが多く、日本においても「観音」の呼称が一般的となっている。 唐代に編纂された『隋書』において煬帝が倭国に使わした使者の裴世清(『日本書紀』)が『隋書』では「裴清」と記された。 顕慶2年(657年)には、「世」「民」を含む「昬」「葉」の字形を、それぞれ「昏」「𦯧」と改めるよう命じられた。 唐の詩人杜甫は、父の名が杜閑であったため、その詩文に決して「閑」の字を用いなかったとされる。 同じく唐代の詩人である李賀は、父の名「李晋粛」の「晋」が「進」と同音であると因縁をつけられて進士科の受験を拒否された。 王錫侯が著した『字貫』の初版は、清朝歴代皇帝の避諱を行っていなかったために禁書となり、王錫侯も処刑された。 清の高宗乾隆帝の諱が「弘暦」であるため、「暦」の字が避けられ「歴」字で代用された。また、同様に「弘」の字も避けられ、弓(ゆみへん)を崩して、「ム」の部分を口とした文字が用いられた。清朝から嘉納治五郎の「弘文学院」に留学した学生の賞状などでは、「弘」を避け「宏文学院」と表記された。 中華人民共和国の江蘇省儀徴市は避諱で3度改称した町として知られる。南唐のときには「永貞県」と称していたが北宋の仁宗趙禎の諱を避けて「揚子県」と改称した。その後「儀真県」の名を下賜された。その後清朝のときに雍正帝胤禛の諱を避けて「儀徴県」と改称し、さらに宣統帝溥儀の諱を避けて「揚子県」と改称された。清朝滅亡後、避諱の習慣がなくなると「儀徴」の名称が復活した。
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