楚漢戦争
楚漢戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 06:01 UTC 版)
同年5月、斉の王族・田栄が挙兵した。その後、封建に不満を抱く陳余や彭越が続々と項羽の封建した王に対して兵を起こす。 同年7月、項羽は、韓王成を侯に格下げして、殺してしまった。 同年8月、劉邦が挙兵し、関中に封じた章邯・司馬欣・董翳と交戦を行った。 紀元前205年10月、義帝の臣下は次第に背くようになり、項羽は、英布・呉芮・共敖に命じて、その途中で暗殺させている。 項羽は、かつて韓王成に仕え、劉邦に仕えていた張良から「劉邦は、懐王の約の通り、関中を得れば、東に進んで項羽と争う気はない」という書簡と斉(田栄)と梁(彭越)の謀反書を受け取ったため、同年正月、北上して斉を討伐する。城陽にて田栄を破り、田栄は平原まで逃亡して殺される。項羽はさらに北上して、北海まで進軍して、斉の城や家屋を焼き、田栄の降伏した兵士を生埋めにし、老弱や婦人をしばって捕虜とした。そのため、斉の人々は集まって抵抗して、田横が斉の兵を収めて城陽にて反抗した。項羽は田横と連戦したが、なかなか降伏させることができなかった。九江王に封じた英布にも救援要請を行ったが、病と称して拒否され、英布を恨むようになった。 また、三秦(関中)を平定し、洛陽にて義帝が殺害されたことを知った「漢王」劉邦は大義名分を得て、諸侯へ項羽の討伐を呼びかける。これ以降の楚と漢の戦争を「楚漢戦争」と呼ぶ。 このときの諸侯に向けた檄文は以下のものであった。 「天下共立義帝,北面事之.今項羽放殺義帝於江南,大逆無道.寡人親為發喪,諸侯皆縞素.悉發関内兵,収三河士,南浮江漢以下,願従諸侯王撃楚之殺義帝者.(天下の人はともに義帝を立て、北面して仕えた。項羽が義帝を江南に放逐して殺したことは、大逆無道の行いである。私(劉邦)は自ら喪を発した。諸侯もみな喪服を着よ。関中の兵を全て発し、三河(河內、河東、河南)の兵を収め、南の方、江漢に浮かべて下っていき、諸侯王に従って、楚の義帝を弑した者(項羽のこと)を討つことを願う)」 同年4月、劉邦は魏・趙などと連合して56万の大軍を率いて楚の彭城を占領するが、3万の精兵のみを率いて急行してきた項羽はこの大軍を一蹴し、20万余を殺戮する(彭城の戦い)。劉邦は敗走し、劉邦の父である劉太公や妻の呂雉は項羽の捕虜となった。 淮南王である英布が漢につき、楚に反したため、項声と龍且に討伐を命じる。漢3年(紀元前204年)12月、龍且は淮南を攻撃して英布を打ち破り、英布は逃亡した。項伯を派遣し、淮南は占領する。 同年4月、項羽は滎陽一帯に劉邦を追い込んだが(滎陽の戦い)、その間に、田横が田広を王として斉を手中にいれてしまった。諸侯は項羽に味方し、項羽は滎陽を攻め立てたが、劉邦側の陳平による内部分裂工作により、参謀にあたり亜父(父についで尊敬する人)とまで呼んでいた范増や、これまで共に闘ってきた鍾離眜・周殷・龍且の将軍らを疑うようになった。項羽は、范増の進言を聞き入れないようになり、次第に范増の権限を奪ったため、范増は辞職を願い出、項羽はこれを認めた。范増は病死した。 同年7月、劉邦は滎陽を脱出し、項羽はやっと滎陽を落とす。続いて成皋も包囲し、劉邦の脱出後に落城させるが、彭越の後方撹乱行動によって西進を阻まれる。項羽は彭越を撃破するが、劉邦は成皋を奪回し、広武に陣地を布いた。項羽もまた、広武に赴き、劉邦と相対する。 項羽は、劉邦の父を人質にとり、劉邦に降伏をうながすが、劉邦に「項羽と兄弟となることを約束した。わしの父はお前の父である」と言われ、降伏を拒絶される。項羽は劉邦の父を殺そうとしたが、項伯に止められて断念する。 項羽と劉邦の対峙は続き、項羽の軍は次第に兵役と補給に疲れ果ててきた。項羽は劉邦と一騎打ちで戦乱の決着を求めるが、断られる。項羽は、楚軍の勇士に挑戦させるが、漢軍の楼煩に3度まで射殺される。項羽が自ら楼煩に挑戦すると、楼煩はその目を合わせると逃亡し、再度出てくることはなかった。 項羽は、劉邦と広武山の間にある澗水をへだてて語り合った。劉邦は、項羽の罪を数え上げた。その内容は以下のものであった。 「始與項羽倶受命懐王,曰先入定關中者王之,項羽負約,王我於蜀漢,罪一。項羽矯殺卿子冠軍而自尊,罪二。項羽已救趙,當還報,而擅劫諸侯兵入關,罪三。懐王約入秦無暴掠,項羽燒秦宮室,掘始皇帝冢,私收其財物,罪四。又彊殺秦降王子嬰,罪五。詐阬秦子弟新安二十萬,王其將,罪六。項羽皆王諸將善地,而徙逐故主,令臣下爭叛逆,罪七。項羽出逐義帝彭城,自都之,奪韓王地,并王梁楚,多自予,罪八。項羽使人陰弑義帝江南,罪九。夫為人臣而弑其主,殺已降,為政不平,主約不信,天下所不容,大逆無道,罪十也。吾以義兵従諸侯誅残賊,使刑餘罪人撃殺項羽,何苦乃與公挑戰! (私が)はじめに項羽と一緒に「先に関中に入ったものを王とする」という懐王の命令を受けたのに、項羽が約束を破り、私を蜀漢の王とした。罪の第一である。 項羽は(懐王の命令を偽って)、卿子冠軍(宋義)を殺して、自分で上将軍という尊い地位についた。罪の第二である。 項羽が趙を救ったからには、(懐王の元に)もどって報告するべきである。しかし、(現実は)ほしいままに、諸侯や兵を脅して関中に入った。罪の第三である。 懐王は、「秦(の土地)に入ったら、暴虐・略奪してはいけない」と(項羽に)約したのに、項羽は秦の宮室を焼き、皇帝の墓を掘り、その財物を納めて自分のものとした。罪の第四である。 また、無理に降伏した秦王・子嬰を殺した。罪の第五である。 だまして、秦の子弟・20万人を生埋めにして、その将軍(章邯・司馬欣・董翳のこと)を王とした。罪の第六である。 項羽は(自分とともに戦った)諸将を皆、良い土地の王とし、元の君主を追い出して、臣下に争って(元の君主に)反逆させるように仕向けた。罪の第七である。 項羽は、義帝を彭城より追い出して、彭城を自らの都とし、韓王の土地を奪い、梁と楚(の土地を)併合して、多くを自分(の土地として)に与えた。罪の第八である。 項羽は、人を使って、義帝を江南において弑逆し、殺した。罪の第九である。 人臣でありながら、君主を弑殺し、降伏したものを殺し、不公平な政治を行い、盟約の主でありながら、まことではない。(項羽は)天下の許されないところであり、大逆無道である。罪の第十である。 私は、義兵をもって諸侯を従え、残虐な賊を誅するに、刑罰を受けた罪人を仕向けて項羽を打ち殺そうと考えている。何を苦しんで、君に挑み戦うことがあろうか! 項羽は、一騎打ちでの決着を劉邦に求めたが、劉邦は聞き入れなかった。項羽は隠し持った弩で劉邦を射た。劉邦は負傷して、成皋に逃亡した。 漢4年(紀元前203年)11月、項羽は漢に攻撃された斉の援軍として龍且を派遣するが、龍且は韓信と戦い、戦死する。また、彭越が楚に反して、梁の土地を占領し、項羽の軍勢の糧道を絶つ。項羽はそのため、大司馬の曹咎に打って出ないように注意した上で、成皋を任せて、彭越討伐に向かう。 項羽は東に向かい、外黄県が数日にわたり抵抗して降伏しなかったので、15歳以上の男子を全て、生埋めにしようとした。この時、外黄県令の舎人の子にあたる13歳の少年が、「外黄の人は、彭越に無理に脅されただけです。大王(項羽)が皆を生埋めにすれば、梁の土地は(項羽に生き埋めにされることを恐れて)降伏しないでしょう」と進言すると、項羽は同意して、外黄の人々を許した。これを聞いて(梁の土地は)みな争って降伏した。 しかし、成皋にいた曹咎は項羽の命令に反して城を出て漢軍を攻撃し、敗北した曹咎は自殺し、楚軍の財貨は全て奪われた。項羽は引き返して滎陽の東で包囲されていた鍾離眜を救い、漢軍と対峙する。 項羽の軍勢は疲れ、兵糧も欠乏していることに対し、漢軍は軍勢が盛んで兵糧が多かった。
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