楚漢戦争とは? わかりやすく解説

楚漢戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/04 21:11 UTC 版)

楚漢戦争(そかんせんそう)は、中国紀元前206年から紀元前202年にわたり、王朝滅亡後の政権をめぐり、西楚の覇王項羽劉邦との間で繰り広げられた戦争。「楚漢争覇」「項羽と劉邦の戦い」とも呼ばれる。




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楚漢戦争

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項羽」の記事における「楚漢戦争」の解説

同年5月、斉の王族田栄挙兵した。その後封建に不満を抱く陳余彭越続々項羽封建した王に対して兵を起こす同年7月項羽は、韓王成を侯に格下げして、殺してしまった。 同年8月劉邦挙兵し関中封じた章邯司馬欣董翳交戦行った紀元前205年10月義帝臣下次第に背くようになり、項羽は、英布呉芮共敖命じて、その途中で暗殺させている。 項羽は、かつて韓王成仕え劉邦仕えていた張良から「劉邦は、懐王の約の通り関中得れば、東に進んで項羽と争う気はない」という書簡と斉(田栄)と彭越)の謀反書を受け取ったため、同年正月北上して斉を討伐する城陽にて田栄破り田栄平原まで逃亡し殺される項羽はさらに北上して北海まで進軍して、斉の城や家屋焼き田栄降伏した兵士生埋めにし、老弱婦人しばって捕虜とした。そのため、斉の人々集まって抵抗して田横が斉の兵を収めて城陽にて反抗した項羽田横連戦したが、なかなか降伏させることができなかった。九江王に封じた英布にも救援要請行ったが、病と称して拒否され英布を恨むようになった。 また、三秦(関中)を平定し洛陽にて義帝殺害されたことを知った「漢王」劉邦大義名分得て諸侯項羽討伐呼びかける。これ以降と漢の戦争を「楚漢戦争」と呼ぶ。 このときの諸侯向けた檄文は以下のものであった。 「天下共立義帝北面事之.今項羽放殺義帝於江南,大逆無道寡人親為發喪諸侯縞素.悉發関内兵,収三河士,南浮江漢以下,願従諸侯王之殺義帝者.(天下の人はともに義帝立て北面して仕えた項羽義帝江南放逐して殺したことは、大逆無道行いである。私(劉邦)は自ら喪を発した諸侯もみな喪服着よ関中の兵を全て発し三河河內河東河南)の兵を収め、南の方、江漢浮かべて下っていき、諸侯王に従って義帝を弑した者(項羽のこと)を討つことを願う)」 同年4月劉邦は魏・趙などと連合して56大軍率いて彭城占領するが、3精兵のみを率いて急行してきた項羽はこの大軍一蹴し20万余殺戮する彭城の戦い)。劉邦敗走し劉邦の父である劉太公や妻の呂雉項羽捕虜となった淮南王である英布が漢につき、反したため、項声と龍且討伐命じる。漢3年紀元前204年12月龍且淮南攻撃して英布打ち破り英布逃亡した項伯派遣し淮南占領する同年4月項羽滎陽一帯劉邦追い込んだが(滎陽の戦い)、その間に、田横田広王として斉を手中にいれてしまった。諸侯項羽味方し項羽滎陽攻め立てたが、劉邦側の陳平による内部分裂工作により、参謀にあたり亜父(父についで尊敬する人)とまで呼んでいた范増や、これまで共に闘ってきた鍾離眜周殷龍且将軍らを疑うようになった項羽は、范増進言聞き入れないようになり、次第范増権限奪ったため、范増辞職願い出項羽はこれを認めた范増病死した。 同年7月劉邦滎陽脱出し項羽はやっと滎陽を落とす。続いて成皋も包囲し劉邦脱出後に落城させるが、彭越後方撹乱行動によって西進阻まれる。項羽彭越撃破するが、劉邦は成皋を奪回し広武陣地布いた項羽また、広武に赴き、劉邦相対する項羽は、劉邦の父人質にとり、劉邦降伏うながすが、劉邦に「項羽兄弟となることを約束した。わしの父はお前の父である」と言われ降伏拒絶される項羽劉邦の父殺そうとしたが、項伯止められ断念する項羽と劉邦対峙続き項羽の軍は次第兵役補給疲れ果ててきた。項羽劉邦一騎打ち戦乱決着求めるが、断られる項羽は、楚軍勇士挑戦させるが、漢軍の楼煩3度まで射殺される項羽が自ら楼煩挑戦すると、楼煩はその目を合わせる逃亡し再度出てくることはなかった。 項羽は、劉邦広武山の間にある澗水へだてて語り合った劉邦は、項羽の罪を数え上げたその内容は以下のものであった。 「始與項羽受命懐王,曰先入關中者王之,項羽負約,王我於蜀漢,罪一。項羽矯殺卿子冠軍自尊,罪二。項羽已救趙,當還報,而擅劫諸侯入關,罪三。懐王約入秦無暴掠項羽燒秦宮室,掘始皇帝冢,私收其財物,罪四。又彊殺秦降王子嬰,罪五。詐阬秦子弟新安二十,王其將,罪六。項羽皆王諸將善地,而徙逐故主,令臣下叛逆,罪七。項羽出逐義帝彭城,自都之,奪韓王地,并王梁,多自予,罪八。項羽使人陰弑義帝江南,罪九。夫為人臣而弑其主,殺已降為政不平,主約不信天下不容大逆無道,罪十也。吾以義兵諸侯残賊,使刑餘罪人撃殺項羽,何苦乃與公挑戰! (私が)はじめに項羽一緒に先に関中入ったものを王とする」という懐王命令受けたのに、項羽約束破り、私を蜀漢の王とした。罪の第一である。 項羽は(懐王命令偽って)、卿子冠軍宋義)を殺して自分上将軍という尊い地位についた。罪の第二である。 項羽が趙を救ったからには、(懐王元にもどって報告するべきである。しかし、(現実は)ほしいままに諸侯や兵を脅して関中入った。罪の第三である。 懐王は、「秦(の土地)に入ったら、暴虐略奪してはいけない」と(項羽に)約したのに、項羽は秦の宮室焼き皇帝の墓を掘り、その財物納めて自分のものとした。罪の第四である。 また、無理に降伏した秦王子嬰殺した。罪の第五である。 だまして、秦の子弟・20万人生埋めにして、その将軍章邯司馬欣董翳のこと)を王とした。罪の第六である。 項羽は(自分とともに戦った諸将を皆、良い土地の王とし、元の君主追い出して臣下争って(元の君主に)反逆させるように仕向けた。罪の第七である。 項羽は、義帝彭城より追い出して彭城を自らの都とし、韓王土地奪い(の土地を)併合して多く自分(の土地として)に与えた。罪の第八である。 項羽は、人を使って義帝江南において弑逆し、殺した。罪の第九である。 人臣ありながら君主を弑殺し降伏したものを殺し不公平な政治行い盟約の主でありながら、まことではない。(項羽は)天下許されないところであり、大逆無道である。罪の第十である。 私は、義兵をもって諸侯従え残虐な賊を誅するに、刑罰受けた罪人仕向けて項羽打ち殺そう考えている。何を苦しんで君に挑み戦うことがあろうか! 項羽は、一騎打ちでの決着劉邦求めたが、劉邦聞き入れなかった。項羽隠し持った弩で劉邦射た劉邦負傷して、成皋に逃亡した。 漢4年紀元前203年11月項羽は漢に攻撃された斉の援軍として龍且派遣するが、龍且韓信戦い戦死するまた、彭越反して土地占領し項羽軍勢糧道絶つ項羽はそのため、大司馬曹咎打って出ないよう注意した上で、成皋を任せて彭越討伐に向かう。 項羽は東に向かい外黄県が数日にわたり抵抗して降伏しなかったので、15歳上の男子を全て生埋めにしようとした。この時、外黄県令舎人の子にあたる13歳少年が、「外黄の人は、彭越無理に脅されただけです。大王項羽)が皆を生埋めにすれば土地は(項羽生き埋めにされることを恐れて降伏しないでしょう」と進言すると、項羽同意して外黄人々許した。これを聞いて土地は)みな争って降伏した。 しかし、成皋にいた曹咎項羽命令反して城を出て漢軍を攻撃し敗北した曹咎自殺し楚軍財貨全て奪われた。項羽引き返して滎陽の東で包囲されていた鍾離眜救い、漢軍と対峙する項羽軍勢疲れ兵糧欠乏していることに対し、漢軍は軍勢が盛んで兵糧多かった

※この「楚漢戦争」の解説は、「項羽」の解説の一部です。
「楚漢戦争」を含む「項羽」の記事については、「項羽」の概要を参照ください。

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