両国の反応
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イギリス戦艦2隻撃沈の戦果は昭和天皇に報告され、天皇は「ソレハヨカッタ」と喜んだ。また「聯合艦隊航空部隊ハ敵英國東洋艦隊主力ヲ南支那海ニ殲滅シ威武ヲ中外ニ宣揚セリ 朕太タ之ヲ嘉ス」の勅語を示した。1942年(昭和17年)4月15日、連合艦隊司令長官山本五十六大将はマレー沖海戦に参加した航空隊および隊員に感状を授与した。 日本軍は「帝国海軍は開戦劈頭より英国東洋艦隊特にその主力艦二隻の動静を注視しありたるところ、九日午後帝国海軍潜水艦は敵主力艦出動を発見、爾後帝国海軍航空隊と緊密なる協力の下に捜索中本十日午前十一時半マレー半島東岸クアンタン沖において再び同潜水艦これを確認せるを以て帝国海軍航空部隊は機を逸せず、これに対し勇猛果敢なる攻撃を加へ午後二時廿九分戦艦レパルスは瞬時にして轟沈し同時に最新式戦艦プリンス・オブ・ウエールズは忽ち左に大傾斜暫時遁走せるも間もなく午後二時五十分大爆発を起し遂に沈没せり、ここに開戦第三日にして早くも英国東洋艦隊主力は全滅するに至れり。」と大本営発表(昭和16年12月10日午後4時5分)を行い、イギリス東洋艦隊主力の撃滅を宣伝した。写真週報第201号(昭和16年12月31日号)では「比類なき戰果 マレー沖海戰 撮影海軍省 十二月十日、マレー半島東岸クワンタン沖でわが海軍航空隊必殺の猛撃を浴びあへない最後ととげる英國東洋艦隊旗艦プリンス・オヴ・ウェールス號と戰艦レパルス號断末魔の姿―手前の白い水煙に包まれてゐるのはわが海鷲の適確な集中爆撃を浴びてゐるウェールス號、遠くは轟沈寸前のレパルス號」として撃沈された戦艦を写した写真とともに公表されている。 12月18日、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉はアナンバス諸島電信所爆撃任務からの帰路両艦の沈没した海域を通過し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して日英両軍の戦死者に対し敬意を表した。宇垣纏連合艦隊参謀長は、イギリス戦艦2隻を引き揚げ修理した上で日本海軍への編入を思案したが、実現しなかった。軍令部もプリンス・オブ・ウェールズの引き揚げと調査のため、サルベージの手続きをとっている。 イギリス東洋艦隊の2戦艦が撃沈された時点で、まだシンガポールには重巡洋艦エクセター、軽巡洋艦モーリシャス、ダナイー級軽巡洋艦ダーバン、ダナイー、ドラゴン、駆逐艦ジュピター、エンカウンター、ストロングホールド、スコット、サーネット、オランダ海軍のジャワ級軽巡洋艦ジャワ、アメリカ海軍の駆逐艦ホイップル、ジョン・D・エドワーズ、エドソール、オールデンがあった。このうち4隻のアメリカ駆逐艦部隊はシンガポールを出航して戦地に向かい、帰路に就く駆逐艦エクスプレスらと遭遇した。エクスプレスは戦闘が終了したことを伝えた。アメリカ駆逐艦部隊は北上を続け、漂流者の捜索を行ったが発見できなかった。 この海戦の結果、インド洋に進出していた東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。しかし、残存艦はスラバヤ(ジャワ島)に後退してABDA司令部指揮下でABDA艦隊を編成し、1月24日にはアメリカ駆逐艦部隊による攻撃(バリクパパン沖海戦)でボルネオ島上陸部隊が妨害を受けるなど予断は許されない状況であった。 戦艦プリンス・オブ・ウェールズは1941年(昭和16年)8月上旬に行われた大西洋会談においてフランクリン・ローズベルト(アメリカ合衆国大統領)とウィンストン・チャーチル(イギリス首相)が乗艦し、大西洋憲章が結ばれた場所でもある。 イギリスのウィンストン・チャーチル首相は著書の中でマレー沖海戦でこの2隻を失ったことが第二次世界大戦でもっとも衝撃を受けたことだと記している。また議会に対して「イギリス海軍始って以来の悲しむべき事件がおこった」と報告した。 沈没したプリンス・オブ・ウェールズは水面下68 m(223フィート)の位置で見つかり[いつ?]、不法ダイバーに盗まれるのを危惧したことから2002年になってベルが取り外された。ベルはリバプールの博物館(Merseyside Maritime Museum)で展示されている。レパルスはさらに浅い40メートルの海底に沈んでおり、海面から船体が視認できる状態である。双方の艦とも完全に転覆した状態で海底に横たわっている。
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