ライネッケ
ライネッケは1824年、北ドイツの都市アルトナ(現ハンブルク、当時デンマーク領)に生まれた。父は当時名前のよく知られた音楽理論家で、この父の指導下で着実に音楽の素養を身につけ7歳のときには作曲を手掛けるようになった。10代半ばにフーガ付きのピアノ曲作品1を出版しているところをみると、このときまでに彼は基礎的な作曲技術を一通り修得していたと思われる。演奏の進歩も著しく、11歳のときにはピアニストとして知られるようになったという。1843年3月、18歳のときに故郷を離れライプツィヒや北ドイツのリューベック、デンマークの主都コペンハーゲンを訪れて演奏した。その後ライプツィヒに戻ると、数年間ここにとどまり最後の「学習時代」を過ごす。J. S. バッハが後半生を過ごしたこのライプツィヒでは早くから公開演奏会の伝統が根付いており、1781年に設立されたゲヴァントハウスのコンサートホールとオーケストラは市民と音楽家に豊かな文化的土壌をもたらしていた。
ドイツの作曲家、教育者。音楽教師をしていた父親から徹底的に音楽教育を施された。1845年以後、ヨーロッパ各地で演奏家として活躍。1851年から、ケルンで音楽教育に関わり、複数団体の音楽監督などを兼務して次第に名声を高めた。1861年、ライプツィヒ音楽院のピアノ科・作曲科の教授に任命され、97年からは院長となり、各種の改善を行なって同音楽院の黄金期を現出した。また、ケヴァントハウス管弦楽団の指揮者として、団員の訓練にあたり、演奏レベルを向上させた。厳格な姿勢で多くの仕事に臨んだ反面、穏健な人柄でもあったようで、同時代の音楽家から多大な尊敬を集めた。ライネッケに献呈された音楽作品は数多い。
自身の作品としては、作品番号の付されたもののみで288を数え、初級者向けのソナチネから、ピアノ協奏曲まで、多くのピアノ作品が含まれている。
多才な人物であり、詩作、絵画、著作でも高い評価を得ている。あまりに膨大な仕事ぶりが災いしてか、演奏や研究で焦点が当たる機会は、この人物の影響力に鑑みて十分とは言い難い。
ライネッケ
ライネッケ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 07:37 UTC 版)
ライネッケ(低地ドイツ語: Reinecke)は、ドイツ語圏の姓。
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