フィレンツェでレオナルドを取り巻いていた芸術的、社会的背景とは? わかりやすく解説

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フィレンツェでレオナルドを取り巻いていた芸術的、社会的背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:48 UTC 版)

レオナルド・ダ・ヴィンチ」の記事における「フィレンツェでレオナルドを取り巻いていた芸術的、社会的背景」の解説

レオナルド若年だった当時フィレンツェは、ルネサンス人文主義における思想文化の中心地だった。レオナルドヴェロッキオ弟子入りした1466年は、ヴェロッキオの師で偉大な彫刻家だったドナテッロ死去した年でもある。遠近法絵画作品最初に取り入れて風景画発展多大な貢献をなした画家パオロ・ウッチェロは、既に老境入っていた。画家ピエロ・デッラ・フランチェスカフィリッポ・リッピ彫刻家ルカ・デッラ・ロッビア建築家著述家レオン・バッティスタ・アルベルティ60歳代だった。これら初期ルネサンス代表する芸術家たちの次世代成功収めたのが、レオナルドの師ヴェロッキオアントニオ・デル・ポッライオーロ、ミーノ・ダ・フィエゾーレ(英語版)らである。フィエゾーレは人物彫刻を得意とした彫刻家で、ロレンツォ・デ・メディチ父親ピエロ伯父ジョヴァンニ・ディ・コジモ・デ・メディチ(英語版)の胸像は、本人に非常によく似ていると言われている。 また当時フィレンツェは、写実的感情豊かな人物像フレスコ描いた画家マサッチオ人物建築物複雑な構成表現されサン・ジョヴァンニ洗礼堂金箔彩られた東扉『天国への門』を制作した彫刻家ロレンツォ・ギベルティなど、ドナテッロ同時代芸術家たちの作品飾り立てられていた。ピエロ・デッラ・フランチェスカ空気遠近法研究推し進め科学的に正確な光の描写絵画もたらした最初画家となった。これらの研究レオン・バッティスタ・アルベルティの『絵画論』といった芸術論文が、当時若年芸術家たちに大きな影響与えレオナルド先人たちから影響のなかで独自の観察眼芸術観培っていった。 マサッチオの『楽園追放』(1425年頃、ブランカッチ礼拝堂壁画)は、裸身取り乱すアダムとイヴを力強い造形描いた作品である。光と陰の対比用いて三次元的に人物描写した楽園追放』はレオナルド大きな影響与え自身の作品でこの三次元描写発展させていくことになる。また、ドナテッロ彫刻ダヴィデ』における人文主義的作風が、後のレオナルド作品群、特に『洗礼者聖ヨハネ』(1513年 - 1516年ルーヴル美術館所蔵)に影響与えている。 フィレンツェ伝統的に好まれていた絵画分野に、聖母子描いた小規模な祭壇画がある。当時、これらの祭壇画リッピヴェロッキオ、デッラ・ロッビア一族らの工房制作され作品多かったレオナルド聖母子描いた初期の作品に『カーネーションの聖母』(1478年 - 1480年アルテ・ピナコテーク)と『ブノアの聖母』(1478年頃、エルミタージュ美術館)がある。これらレオナルド描いた聖母子は、基本的にフィレンツェ伝統的な聖母子作風則っている。しかしながらブノアの聖母子』に顕著な聖母子ピラミッド型配する構成は、伝統的な作風からは逸脱した表現となっている。後に同様の構成描かれレオナルド作品に『聖アンナと聖母子』(1508年頃、ルーヴル美術館)がある。 レオナルドボッティチェッリ1445年頃 - 1510年)、ギルランダイオ1449年 - 1494年)、ペルジーノ1450年頃 - 1523年)と同時代人で、わずかに年少である。レオナルドはこの3人と相弟子としてヴェロッキオ工房出会いメディチ家主宰するプラトン・アカデミー出入りしたボッティチェッリは特にメディチ家気に入られており、画家としての成功約束されていたも同然だったギルランダイオペルジーノどちらも多作画家で、後に大規模な工房経営するいたった両者共に制作依頼主を満足させるだけの技量持った芸術家で、ギルランダイオ大規模なフレスコ宗教画裕福なフィレンツェ市民の肖像描き入れた作品を、ペルジーノ甘美無垢な多数聖者天使描いた作品を、それぞれ得意としていた。 ボッティチェッリギルランダイオは、ローマ教皇シクストゥス4世から、ヴァチカンシスティーナ礼拝堂壁画制作依頼受けた1479年ペルジーノ教皇庁から、礼拝堂壁画制作責任者任じられ間もなくのことである。しかしながらこの栄誉ある壁画制作には、レオナルド関与していない。レオナルド依頼受けた最初重要な絵画制作は、1481年にサン・ドナート・スコペート修道院修道僧からの『東方三博士の礼拝』だが、未完のままに終わっている。 レオナルドヴェロッキオ工房働いていた時期1476年初期フランドル派画家フーホ・ファン・デル・フース油彩画『ポルティナーリの三連祭壇画英語版)』(1475年頃、ウフィツィ美術館)がフィレンツェ持ち込まれた。北方ヨーロッパ初期フランドル派完成させた新たな絵画技法である油彩は、レオナルドギルランダイオペルジーノら、フィレンツェ活動していた芸術家たちに多大な影響与えたその後シチリア出身画家アントネッロ・ダ・メッシーナ油彩技法を身につけ、1479年ヴェネツィア訪れた当時ヴェネツィア第一人者であった画家ジョヴァンニ・ベリーニメッシーナから油彩技法伝授され、たちまちのうちにヴェネツィアでも油彩による絵画制作主流となった。そして、後にレオナルドヴェネツィア訪れることになる。 当時代表的な建築ドナト・ブラマンテアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオ同じように、レオナルド集中形式の教会デザイン試みた多く設計図外観図がその手稿に残されているが、実現した計画一つもなかった。 レオナルド在住時のフィレンツェ支配者ロレンツォ・デ・メディチだった。ロレンツォレオナルドよりも3歳年長で、弟のジュリアーノ1478年起きたいわゆるパッツィ家の陰謀暗殺された。後にレオナルドメディチ家使者として派遣されるミラノ公国1479年から1499年まで統治したミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァは、レオナルド同年生まれである。 レオン・バッティスタ・アルベルティ紹介受けてメディチ一族邸宅訪れたレオナルドは、哲学者新プラトン主義の提唱マルシリオ・フィチーノ古典文学注釈書著者クリストフォロ・ランディーノギリシア語教授アリストテレス著作翻訳者ジョヴァンニ・アルギロプーロ(英語版)ら、当時第一流ルネサンス人文主義者たちの知遇得たまた、メディチ家主催するプラトン・アカデミーには、才能溢れた若き哲学者ピコ・デラ・ミランドラの姿もあった。後にレオナルド手稿余白に「メディチが私を創り、そしてメディチが私を台無しにした」と書き入れている。レオナルドが、ロレンツォ推挙によってミラノ公宮廷迎え入れられたのは間違いなく、なぜレオナルドこのような謎めいた書込み残したのかは分かっていない。 「盛期ルネサンス三大巨匠」と並び称されるレオナルドミケランジェロラファエロだが、この三名同年代人ではない。ミケランジェロ生まれたときにレオナルド23歳で、ラファエロ生まれたときにはレオナルド31歳だった。レオナルド1519年67歳で、ラファエロ1520年37歳それぞれ死去しているが、長命保ったミケランジェロ死去したのは1564年88歳の時のことである。

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