ナイアガラ襲撃とは? わかりやすく解説

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ナイアガラ襲撃(リッジウェイの戦いとフォートエリーの戦い、1866年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/28 00:50 UTC 版)

フェニアン襲撃」の記事における「ナイアガラ襲撃(リッジウェイの戦いフォートエリー戦い1866年)」の解説

1866年フェニアン団は2つの派に別れており、創設者のジョン・オマホニーが率い当初からの派はアイルランド反乱のために資金集めることに集中したウィリアム・R・ロバーツ率いるより好戦的な「セネイト派」の指導者達は、カナダ州あるいはイギリス領北アメリカの他の部分限定的でも侵入成功すれば、その行動梃子になるものと考えた4月にオマホニーが認めていたニューブランズウィック襲撃試み失敗した後で、セネイト派フェニアンは独自のカナダ侵略作戦実行移した。セネイトの「陸軍長官」である元北軍傑出した士官だったT・Wスウィーニー将軍書き上げたこの作戦は、カナダ・ウェスト(現在のオンタリオ州南部)とカナダ・イースト(現在のケベック州)を分断し、カナダ・イーストからイギリス軍援軍到着する可能性無くすために同時に箇所から侵入することを求めていた。作戦重要点ニューヨーク州バッファローからフォートエリー陽動攻撃掛けることであり、近くウェランド運河攻撃する振りをしてトロントから軍隊遠ざけることが意図された。これは数日後ケベック襲撃除けば1866年6月実際に始められフェニアン唯一の攻撃となった6月1日初め14時間のうちに、ジョン・オニール大佐指揮でおよそ1,000名ないし1,300名のフェニアンナイアガラ川渡ったアメリカ海軍の側輪砲艦USSミシガンはその乗組員中にいたフェニアン妨害されて、午後2時15分までフェニアンへの干渉始められなかった。これはオニール主力先立ってオーウェン・スターの先遣隊が川を渡ってから14時間後だった。USSミシガン介入すると、ナイアガラ地域にいるオニール隊は補給物資数百名(カナダ側史料では3,000名)にのぼるフェニアン反乱者の援軍から切り離された。 オニールフェニアン部隊は自隊を「アイルランド共和軍」(IRA)と呼んでおり、共和軍のボタン着け制服着ている者もいた。これはこの言葉使われ最初の例と考えられている。カナダ国立公文書館にある良く知られたこの戦闘絵画金色ハープの上IRA文字がある緑地の旗を描いている。実際に当時フェニアン使った記章通常サンバースト周りギザギザの光がついた太陽)だった。 カナダ人民兵隊は他の地域から夜通し行軍してきた部隊集結した後でフォートエリーの西にある小さな集落リッジウェイの北で翌朝300名のフェニアン良く練られ待ち伏せにあった(リッジウェイの戦い)。リッジウェイにいたフェニアン隊は夜の間に脱走他の場所への配置によって勢力落としていた。カナダ民兵隊は基本的訓練上のものは受けていない未経験志願兵から構成されており、主にエンフィールド銃装備していることではフェニアン武装同等だった。クィーンズ・オウン・ライフルズ連隊の1個中隊は前日トロントから川を渡ってくるときにスペンサー連発銃装備していたが、それを使う機会にはあたらなかった。フェニアン隊は大半南北戦争鍛えられ古参兵であり、戦争残っていた武器購入してきており、エンフィールド銃それ相当スプリングフィールド銃持っていた。 カナダ民兵隊が列を乱して後退し戦場近く農家戦死者負傷者残して行った一方フェニアン隊は1798年のダンケーンの戦い以来イギリス対すアイルランド勝利を祝ったカナダ民兵隊は戦場31名が戦死し、2名が負傷がもとで死に、4名はその後従軍中に病気死に94名は負傷する病気戦闘不能となった。 この最初の衝突カナダ民兵隊はエリー湖ウェランド運河南端にあるポートコルボーンまで撤退しフェニアン隊はリッジウェイで小休止し後でフォートエリー戻った。そこで別の戦いフォートエリー戦い)が起こりフェニアン隊の後ろ移動してきていた地元カナダ民兵隊の大きな集団降伏させた。しかしフェニアン隊の残り援軍川を渡れないことや、カナダ民兵隊とイギリス正規兵の大部隊が接近していることを考慮してバッファローに戻る道を選んだフェニアン隊はUSSミシガン遮られアメリカ海軍降伏した。 後の証言ではカナダ民兵隊の敗因は「臆病で、非愛国的で、裏切り行為」の性であり、フェニアン隊より大い劣った部隊だったという申立をしている。武装両軍とも同等だった。戦闘雌雄決したのはフェニアン隊の騎兵について誤った報告があり、当時歩兵騎兵対す戦術である方陣を採るよう指示与えられたことだった。誤り気付いて陣形変えようとしたときはフェニアン隊にあまりにも近付きすぎていて変えられなかった。カナダ民兵隊の行動に関する査問委員会第5軍管区旅団副官J・ストートン・デニス中佐無罪にしたが、査問委員会議長ジョージ・T・デニソン大佐重要なポイントについてその同僚とは意見異にしたと言われている。カナダ志願兵指揮委譲されていたアルバート・ブッカー中佐失態対す申立については、同じ査問委員会で「刊行物彼に与えられ不利な非難には少しの根拠も無い」と決裁された。これらの申立ブッカー残り人生付いて回ることになった。 この侵略始まってから5日後にアメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジョンソン中立法の執行要求する声明発し侵略継続しないことを保証したユリシーズ・グラントジョージ・ミード将軍バッファロー行って事態評価行った当座グラント将軍指示に従ってミード将軍今後国境侵す如何なる者も阻止するという厳命出したグラント将軍セントルイス向かい一方ミード将軍はリッジウェイの戦い終わりフェニアン隊がバッファロー拘禁されていることを確認してニューヨーク州オグデンスバーグに行きセントローレンス川地帯状況監督したその後アメリカ陸軍フェニアン隊の武器弾薬押収するよう命令されそれ以上国境越えることのないようにした。6月7日にでた別の指示では、フェニアン思われる者は誰でも逮捕せよということだった。 皮肉なことにフェニアンアイルランドの独立のために大きな影響与えられなかったが、1866年襲撃カナダ植民地軍がこれを撃退できなかったことで、1867年カナダ連邦形成促進することになった歴史家中にはカナダ軍壊走躊躇していた海洋植民地集団的安全保障の手段を採るための決定票を投じさせたと論じ、リッジウェイを「カナダ作った戦闘」と位置付ける者がいる。 2006年6月オンタリオ州遺産保持機関がこの戦闘の140周年記念してリッジウェイで銘盤を除幕した今日カナダ軍にあるクィーンズ・オウン・ライフルズ連隊多く隊員は、毎年6月2日に近い週末にリッジウェイ戦場跡訪れ戦場自転車ツアー行っている。 スコットランドからの移民以前カナダ賛歌 "The Maple Leaf Forever"の作者、かつオレンジ国教党だったアレクサンダー・ミューアは、クィーンズ・オウン・ライフルズ連隊属してリッジウェイで戦ったフェニアン指揮官はトマス・ウィリアム・スウィーニー将軍であり、この事件アメリカ合衆国政府逮捕されたが、後にアメリカ陸軍従軍し1870年退役した

※この「ナイアガラ襲撃(リッジウェイの戦いとフォートエリーの戦い、1866年)」の解説は、「フェニアン襲撃」の解説の一部です。
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