イギリス海軍での勤務
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「トマス・コクラン」の記事における「イギリス海軍での勤務」の解説
コクランは最初に叔父の指揮する軍艦「ハインド」に乗艦してバルト海で軍務に就いた。1795年には見習士官として軍艦「テティス」に移った。翌年、彼は海尉任用試験にパスし、士官名簿に登録された。そして1798年には軍艦「バーフラー」に移った。 「バーフラー」勤務中に、コクランは副長フィリップ・ビーバーに決闘を挑んだことで軍法会議にかけられた。コクランは重罪には問われなかったが、上官侮辱の廉で譴責された。これは、彼が、こののち議会や複数国の海軍において発揮した、上官、部下、雇い主、そして同僚の多くと協調できないパターンの最初の例である。それは、彼と共通点の多い、同盟すべき者との間でも同様だった。このことは、彼がセント・ヴィンセント伯爵ジョン・ジャーヴィス提督と長い間敵対するに至る原因となった。 1799年に、コクランは鹵獲したフランスの軍艦「ジェネルー」の回航を指揮した。彼とその回航員たちは、嵐の中、沈没を免れるため、船酔いで役に立たない本来の乗組員のかわりにマストに登った。 1800年に、コクランはスループ「スピーディ」の指揮を命じられた。その年、商船を装ったスペイン軍艦に捕まりそうになったが、彼はデンマークの旗を掲げるとともに、伝染病に汚染されていると信じ込ませることによって窮地から逃れた。また、敵のフリゲートに追跡されたときは、それが「スピーディ」のかすかな光を頼りにしていることを察し、樽に蝋燭を置いたものを流して敵艦に追わせ、無事に逃げ切った。 コクランの最も有名な功績のうちの一つであるスペインのフリゲート「エル・ガモ」の鹵獲がなされたのは1801年5月6日のことである。「エル・ガモ」は319人乗組みの32門艦だったのに対し、「スピーディ」の備砲はわずか14門で、乗組員も54人にすぎなかった。コクランは、アメリカの旗を掲げて、「ガモ」の砲が「スピーディ」の船体を砲撃できないほどそばまで接近した。もはや移乗攻撃しか戦う手段はなかったが、スペイン艦の兵が斬り込みを掛けようとする都度、コクランは艦を離し、「スピーディ」の砲で敵艦の甲板上の斬り込み部隊を掃射した。そしてコクランは、まだ5対1で敵が優勢だったにもかかわらず敵艦に乗り込み、これを拿捕した。しかしセント・ヴィンセント卿は、評判の良くない士官を富ませることを望まず、海軍が「エル・ガモ」を購入することを拒否した。「エル・ガモ」は結局アルジェリア海軍に売却され、そのためにコクランとスピーディの乗組員はわずかな拿捕賞金しか受け取ることができなかった。 コクランは「スピーディ」によって17隻の敵艦を拿捕し、またその他数隻を焼き払った。 1801年8月8日、コクランは勅任艦長に昇進した。 マルタ島で、コクランは仮装舞踏会での悶着によってピストルによる決闘をするに至った。彼はその舞踏会に平水夫の仮装で参加しており、それが相手に誤解されたのである。 その後の航海で、コクランは3隻のフランス軍艦と戦って捕らえられたが、程なくフランスの艦長との捕虜交換の対象となった。1802年の戦争再開に当たって、セント・ヴィンセント卿は帰ってきたコクランをフランスから捕獲した6等級私掠船「アラブ」(旧名ル・ブラーヴ)の指揮官に任命した。この船は大変操作性が悪く、コクランには名を上げる機会が与えられなかった。後にコクランは自叙伝の中でこの船を石炭運搬船に例えている。 1804年に、ウィリアム・ピット(小ピット)の新政権が成立してセント・ヴィンセントを更迭したため、コクランは32門フリゲート「パラス」の指揮を任されることになった。「パラス」において彼は再び3隻の軍艦に追い詰められる危機に遭遇したが、かつての「樽のトリック」を用いてそれを逃れた。 1807年に、コクランはフリゲート「インペリュース」の指揮権を与えられた。そこには士官候補生としてフレデリック・マリアット(後の小説家)が乗り組んでいた。コクランは、この船でフランスの地中海沿岸を襲撃した。1808年には、コクランはスペインのゲリラ部隊と協力して、ヘロナ(Gerona)とバルセロナの間に街道ににらみを利かせていたモンガト(Mongat)の要塞を占領した。その結果、デュスメ(Duhesme)将軍指揮下のフランス軍は、1ヵ月の停滞を余儀なくされた。もう一つの成果は通信中継所からの暗号書の奪取である。彼はフランス軍が暗号の漏洩に気づかないように原本は残しておいたのである。水が不足したとき、彼は補給のため「インペリュース」をローヌ川の河口から遡らせることさえした。フランス軍がカタロニアに攻め込んでロサスを取り囲んだとき、コクランはトリニダード要塞を数週間占領して、町の防衛に貢献した。 1809年に、コクランは、バスク・ロードの戦いの一部として、火船の小部隊によるロシュフォール港焼討ちの指揮を命じられた。それは若干の損害を与えたものの、コクランには大きな機会喪失に思えたため、彼は艦隊司令官ガンビア提督を非難した。しかもこの意見を公に表明したことによって、彼はしばらくの間海軍の任務から外される結果となった。
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