イギリス海軍での勤務とは? わかりやすく解説

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イギリス海軍での勤務

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 17:49 UTC 版)

トマス・コクラン」の記事における「イギリス海軍での勤務」の解説

コクラン最初に叔父指揮する軍艦ハインド」に乗艦してバルト海軍務就いた1795年には見習士官として軍艦テティス」に移った翌年、彼は海尉任用試験パスし士官名簿登録された。そして1798年には軍艦バーフラー」に移った。 「バーフラー勤務中にコクラン副長フィリップ・ビーバーに決闘挑んだことで軍法会議かけられた。コクラン重罪には問われなかったが、上官侮辱の廉で譴責された。これは、彼が、こののち議会複数国海軍において発揮した上官部下雇い主、そして同僚多く協調できないパターン最初の例である。それは、彼と共通点の多い、同盟すべき者との間でも同様だった。このことは、彼がセント・ヴィンセント伯爵ジョン・ジャーヴィス提督長い間敵対するに至る原因となった1799年に、コクラン鹵獲したフランス軍艦「ジェネルー」の回航指揮した。彼とその回航員たちは、嵐の中、沈没免れるため、船酔い役に立たない本来の乗組員かわりにマストに登った。 1800年に、コクランスループスピーディ」の指揮命じられた。その年、商船装ったスペイン軍艦に捕まりそうになったが、彼はデンマークの旗掲げとともに伝染病汚染されていると信じ込ませることによって窮地から逃れたまた、敵のフリゲート追跡されたときは、それが「スピーディ」のかすかな光を頼りにしていることを察し蝋燭置いたものを流して敵艦に追わせ、無事に逃げ切ったコクランの最も有名な功績のうちの一つであるスペインフリゲート「エル・ガモ」の鹵獲なされたのは1801年5月6日のことである。「エル・ガモ」は319乗組み32門艦だったのに対し、「スピーディ」の備砲はわずか14門で、乗組員54人にすぎなかった。コクランは、アメリカの旗掲げて、「ガモ」の砲が「スピーディ」の船体砲撃できないほどそばまで接近した。もはや移乗攻撃しか戦う手段はなかったが、スペイン艦の兵が斬り込み掛けようとする都度コクランは艦を離し、「スピーディ」の砲で敵艦甲板上の斬り込み部隊掃射した。そしてコクランは、まだ5対1で敵が優勢だったにもかかわらず敵艦乗り込み、これを拿捕した。しかしセント・ヴィンセント卿は、評判良くない士官富ませることを望まず、海軍が「エル・ガモ」を購入することを拒否した。「エル・ガモ」は結局アルジェリア海軍売却され、そのためにコクランスピーディ乗組員わずかな拿捕賞金しか受け取ることができなかった。 コクランは「スピーディ」によって17隻の敵艦拿捕し、またその他数隻を焼き払った1801年8月8日コクラン勅任艦長昇進したマルタ島で、コクラン仮装舞踏会での悶着によってピストルによる決闘をするに至った。彼はその舞踏会平水夫の仮装参加しており、それが相手誤解されのであるその後航海で、コクランは3隻のフランス軍艦と戦って捕らえられたが、程なくフランス艦長との捕虜交換対象となった1802年戦争再開当たってセント・ヴィンセント卿は帰ってきたコクランフランスから捕獲した6等級私掠船アラブ」(旧名ル・ブラーヴ)の指揮官任命した。この船は大変操作性悪くコクランには名を上げる機会与えられなかった。後にコクラン自叙伝の中でこの船を石炭運搬船に例えている。 1804年に、ウィリアム・ピット(小ピット)新政権成立してセント・ヴィンセント更迭したためコクラン32フリゲートパラス」の指揮任されることになった。「パラス」において彼は再び3隻の軍艦追い詰められる危機遭遇したが、かつての「トリック」を用いてそれを逃れた1807年に、コクランフリゲート「インペリュース」の指揮権与えられた。そこには士官候補生としてフレデリック・マリアット(後の小説家)が乗り組んでいた。コクランは、この船でフランス地中海沿岸襲撃した1808年には、コクランスペインゲリラ部隊協力して、ヘロナ(Gerona)とバルセロナの間に街道ににらみを利かせていたモンガト(Mongat)の要塞占領したその結果、デュスメ(Duhesme)将軍指揮下のフランス軍は、1ヵ月停滞余儀なくされた。もう一つ成果通信中継所からの暗号書の奪取である。彼はフランス軍暗号漏洩気づかないように原本残しておいたのである不足したとき、彼は補給のため「インペリュース」をローヌ川河口から遡らせることさえした。フランス軍カタロニア攻め込んでロサス取り囲んだとき、コクラントリニダード要塞を数週間占領して、町の防衛貢献した1809年に、コクランは、バスク・ロードの戦い一部として、火船小部隊によるロシュフォール焼討ち指揮命じられた。それは若干損害与えたものの、コクランには大きな機会喪失思えたため、彼は艦隊司令官ガンビア提督非難した。しかもこの意見公に表明したことによって、彼はしばらくの間海軍任務から外される結果となった

※この「イギリス海軍での勤務」の解説は、「トマス・コクラン」の解説の一部です。
「イギリス海軍での勤務」を含む「トマス・コクラン」の記事については、「トマス・コクラン」の概要を参照ください。

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