りんの周辺の人々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:30 UTC 版)
松浪毅 演 - 沢田研二 東北女学校教師で、りんの初恋の人。初登場時(1890年)は40歳。妻を亡くし、婆やとの2人暮らし。元は徳島藩出身の武士。剣の腕前は相当なものとされており、実際に暴漢を軽くいなしてしまうこともある。かつては、江戸幕府軍として長州征伐に参戦。明治維新を経て、幕府が目の前で崩れ去る様に虚しさを感じ、自身の生き方に疑問を持つようになった。その後、キリスト教に武士道の精神を見出したことで改宗。キリスト教に基づく女子教育を行う東北女学校創設に携わったほか、宣教師・中河鶴次と共に、東北で布教活動をしていた。 第1話にて、女人禁制の二本松提灯祭りの太鼓台で、男衆に弾き飛ばされたりんを介抱したところで初めて出会う。「人間である以上、全ては平等である」と諭し、その言葉はりんの生き方に大きな影響を与える。 その後、鶴次や女学校生徒・みどりと共に相馬に布教活動に来たことで、りんと再会。りんが女学校進学を言い出した際には、元々保守的でキリスト教を快く思っていなかった弘次郎とは深い溝が生じる。しかし、大怪我をした弘次郎を介抱して薬を渡し、さらに福島から名医を呼びよせたことで、徐々に弘次郎の態度も軟化。元幕府側の武士であった者同士共感するところもあり、りんの女学校進学が許されるまでに至る。 普段は温厚で優しい紳士である半面、教育者としては大変厳しい。成績が悪いりんを「復習しないのなら授業に参加しなくていい」などと𠮟咤し、それまでの穏やかな態度と一変したことで、りんは現実を思い知らされることになる。当初は特定の生徒を贔屓しない方針であったが、落第点を取ったりんが必死で頼み込んだ結果、夏休みに個人授業を実施する。 女学校の英語偏重主義に異を唱えた教え子・しづとなつ、さらに二人に賛同した教え子・くにが退学することになった際には、深く心を痛める。そして、3人の向学心を尊重し、受け入れ先の学校を探す。しかし、そのことで周囲とのすれ違いが生じてしまい、「松浪による女学校乗っ取り」の陰謀まで持ち上がる騒動となってしまう。これら一連の騒動に責任を感じ、1891年に自ら学校を去る。 その後、長らくりんとは音信不通であったが、1906年に新聞記者となったりんと偶然再会。橘家や鶴次、みどりやくになどの教え子とも再会する。りんの成長を感慨深げに喜び、自身が通訳を務める学者と共にアメリカへと戻っていった。 モデルは学校法人宮城学院(創設当時は宮城女学校)の創設者の1人である押川方義。なお、モデルの押川は松山藩の出身である。 高木(橘)みどり 演 - 美保純 鶴次・松浪とともにキリスト教布教のためにやって来た東北女学校の生徒。初登場時(1890年)は18歳。りんにとっては生涯の親友となる。自由奔放でハキハキと話し、時々物事の核心を突く慣用句や四字熟語を口にする。相馬の橘家に泊まった際には寝間着を着ずに襦袢で寝ていたため、弘次郎らを困惑させた。 女学校ではムードメーカーで、舎監教師・田島の物まねが得意。松浪が担当する学科以外の勉学を怠ったために留年してしまい、りんらと同学年になる。 松浪が女学校を去ると彼目当てで在学していたためか中退し、単身で上京。東京日報の記者として働いていた際、同じく上京したりんと浅草で偶然にも再会する。その後、華族の権妻となり、そこでの遺産を元手に料亭を開業。縁あって出会った嘉助の妻となる。そして料亭を売り払い、嘉助の夢である活動写真の撮影資金を調達する。 その後息子・大吉が生まれ、日露戦争撮影のために大陸へ渡った嘉助の帰りを待ち続ける。しかし、1905年に嘉助は戦地で亡くなり、女手一つで息子を育てることになる。橘家とは長い付き合いのためか関係は良好で、姑となったやえとも意気投合している。 折原きわ 演 - 永島暎子 源造の知人。気っ風がよく、さっぱりした人柄。 初登場時は仙台で小料理屋を営んでおり、彌七に気があった。惚れた男のためなら何でも尽くしてしまう半面、前後の事を考えられなくなるところがあり、女学校の入学試験のためにりんが宿泊した日の夜中、彌七の家を訪れたりんを見つけて、若い女を連れ込んだと誤解した。 彌七の右手が不自由になった際には、一緒になることを提案するも拒まれる。橘家が上京した後に自身も上京。後に籍を入れずに同居し、内縁関係となる。
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