『下官集』の仮名遣い
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『下官集』の中にある「嫌文字事」(文字を嫌ふ事)では60ほどの語例を出して仮名遣いを定めているが、その語例の前には以下の前置きがある。原文は漢字文なので、漢字平仮名交じりの文にして引用する。「文字を嫌ふ」とは仮名を綴る上で文字を選択すること、要するに仮名遣いを定めることをいう。 他人は惣じて(総じて)然らず。又先達、強ひて此の事無し。只(ただ)愚意分別の極めたる僻事(ひがごと)なり。親疎老少、一人も同心の人無し。尤も道理と謂ふべし。況や亦(また)、当世の人の書く所の文字の狼藉、古人の用ゐ来たれる所を過ぎたり。心中これを恨む。 この文の大意を要約すれば、以下のようである。 「仮名遣いについて、ほかの人は総じて気にすることがない。また先人たちもこのことについて、特に言及したことはなかった。以下に自分が定める仮名遣いは、人から見ればただの独りよがりのくだらないたわごとである。親しい者だろうと疎い者だろうと、また老いも若きも、これを見て自分と意を同じくする人は誰もいないだろう。まことにそれは道理というべきである。ましてその上、今の世の人が書くところの仮名遣いのでたらめさは、古人の用いてきたところをもはるかに超えている。この現状を、心の中で恨んでいる」 このなかで定家は、仮名遣いを定めることについては誰の考えにも拠らず、自分が全く新しく始めることだとしている。これは仮名遣いの例をあげたその最後にも、 右の事は師説に非ず。只愚意より発す。旧き草子を見て、これを了見す。 と記しており、「右に定めた仮名遣いは、自分が師匠とする人から受けた説ではない。ただ自分の勝手な創意でしたことであり、古い時代の草子を見て判断した」ということで、やはりこの仮名遣いが自分で考えついたものであり、古くからの伝えや教えに基づくものではないことを強調している。 『下官集』の内容は和歌や仮名の綴り方、写本を作り用いる際の決まり等について記したものであり、それらは幼童に文字の綴り方を教えるなどといった類いのものではない。定家は朝廷に仕える公家であるとともに、和歌を業とする家すなわち歌詠みの家としても名を上げていた。それは単に和歌を詠むだけではなく、当時すでに古典とされた『古今和歌集』や『伊勢物語』といった文学作品を書き写し、またその本文の解釈を「説」と称して子孫に伝えることも重要事としていたのである。『下官集』の仮名遣いとは、それら写本を作るうえで本文を校訂し解釈を定めるためのものであった。つまり自分以外の人間が自分の写した本を見て、読みづらかったり理解しづらいことがないように本文の表記に決まりを設けておこうというのが、定家が仮名遣いを定めた目的だったのである。定家のいう「文字の狼藉」とは、歌詠みにとって重要なものであるはずの三代集をはじめとする歌書類の本文について、その仮名遣いが何の規範もない、いい加減なものであっては誤写誤読を招くことになるという意味の批判であった。 ただし定家は、「昔の人は仮名をまともに書き分けていた、それに比べて今の人たちの仮名遣いはでたらめだ」などといっているわけではない。定家からすれば、三代集等の写本を作るうえで仮名遣いをはじめとする表記のありように、特に関心を置かなかった「古人」や「先達」もまた「文字の狼藉」を繰り返していたと見ているのであり、ましてそれ以上の「文字の狼藉」を行なって平気でいる「当世の人」に至っては、話にならないといっているのである。しかし当時の学問において「師説」によらず新たに何かをなそうとすることは、相当な自信と覚悟のいることだったと見られるが、たとえそれが「僻事」と非難されようとも、定家にとっては「文字の狼藉」がないように本文を書写校訂することのほうが重要であると考えたのである。 では定家は何をもって仮名遣いを定めたのかといえば、『下官集』では仮名遣いの用例を「旧き草子」、すなわち「古い時代に書き写された仮名の文学作品」に求めたとしているが、その「旧き草子」とは定家が入手できたものに限られており、そこから導き出された仮名遣いは、音韻の変化する以前の用例を正確に記しているものではないことが確認されている。たとえば「ゆゑ」(故)は「ゆへ」と書くように定められている。しかしこれは定家の生きた当時においては「ゆへ」と書くほうが優勢であり、定家が目にした「旧き草子」にも「ゆへ」と記す例が多かったことにより、読んで理解し書き写すのに「ゆへ」であっても不都合ではない、むしろ「ゆゑ」などとしたのでは却って人々の理解を妨げると判断したからであった。 また当時いずれも[wo]の音となっていた「を」と「お」の仮名については、アクセントの高低によって高音を「を」に、低音を「お」に当てて使い分けていたことも、大野晋によって発見されている。これは、もし[wo]の音を含んだ言葉を仮名で書くのに「を」と「お」のいずれを書けばいいのか迷ったとき、例えば「置く」なら高音の「をく」、「奥」なら低音の「おく」というように、それを実際に発音してみればいずれに当てはまるのかがわかる。逆に「をく」、「おく」と書いておけば、それが「置く」、「奥」であるのがわかるというものであった。この高音と低音はいろは歌の「いろはにほへどちりぬるを」の「を」のアクセントと、「うゐのおくやま」の「お」のアクセントが、それぞれの基本となったと考えられているが、『下官集』では「を」には「緒之音」、「お」には「尾之音」という但し書きがついており、実際にはこの「緒」と「尾」の二つの言葉を口にすれば判断できるようにしている。このアクセントによる「を」と「お」の使い分けは、平安時代後半の11世紀末には成立していたと考えられる『色葉字類抄』にもすでに見られる。ただし定家はさらにこの「を」と「お」のほかに変体仮名の「𛄚」(越/・)を用い、アクセントに関わりなく「を」と「お」のいずれにも使える仮名文字とした。例をあげると、 あきのよを いたづらにのみ おきあかす つゆはわがみの うへにぞありける(『後撰和歌集』・秋中 よみ人しらず) がある。この和歌の第三句「おきあかす」には「起き」と「置き」の掛詞が含まれるが、定家筆の『後撰和歌集』ではここに「越」の仮名を使い「越き」と書いている。『後撰和歌集』が編纂された当時は、「置き」と「起き」はいずれも「おき」であった。しかし定家の使い分けでは、「置き」の[wo]は上でも述べたように高音なので「をき」と書くが、「起き」の[wo]では低音なので「おき」と書かなければならない。だがそれでは、この言葉が掛詞であることが示せない。そこで「を」と「お」のどちらでも読み取れる手段として、「越」の仮名をアクセントとは関わりない文字として定め用いたのである。定家はほかにもこれら三つの仮名の使い分けによって、仮名の文をわかりやすく書写することに成功している。 定家は、のちの契沖のように古い文献を調べて仮名遣いを確かめようとしていたわけではない。ゆえにその仮名遣いには理論的な表記規則の根拠はないともいえるが、理論的であろうがなかろうが定家にしてみれば、上で述べた目的を果たすものであればそんなことはどうでもよかったのである。定家にとって仮名遣いの問題は古い文献の中にあったのではなく、仮名を綴る現場で起こっていることであった。定家は仮名遣いを定めることにより、写本の本文が当時の人々から見て読みやすいことを原則としていたのである。
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