五箇山 五箇山の概要

五箇山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 04:18 UTC 版)

 
菅沼合掌集落
 
相倉合掌集落
菅沼地区の合掌造り
冬の五箇山
夏の合掌造り集落

地名の由来

赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つのからなるので「五箇谷間(やま)」となり、これが転じて「五箇山」の地名となった。この名称が、文献に出てくるのは約500年前、本願寺住職第9世光兼実如上人の文書が最初である。これ以前には、荘園時代に坂本保、坂南保、坂上保、坂下保、坂北保の5つの領に区別し「五箇荘」とも呼んだ。この五箇と呼ばれる地名は全国に約120ヶ所程度あると言われ、中国の故事より「五を一括り」を由縁とするらしい。日本で「五穀豊穣」や「五人組」「伍長」との語句などである。平家の落人伝説が「五箇」が多いとの所以は、「五箇」が山間地に多いことや落人が山間に逃げることから源平合戦の近隣の地域に伝説が多い。[要出典]

歴史

五箇山には、縄文時代の埋蔵文化遺跡が約50箇所ある。約4500年前(縄文中期前葉)土器が出土している。他の年代も含めての出土品は、磨製石斧石皿石鏃石棒石刀土偶・耳飾り・ヒスイ大珠・御物石器などである。ヒスイの大珠がコモムラ遺跡(旧平村下梨)東中遺跡(旧平村)から3個出土している。縄文時代のヒスイは全て新潟県糸魚川市明星山から姫川(支流小滝川)と青海川に流出したもので、日本海側との交流があったことを示している。また、御物石器は祭祀具と推測されており、岐阜・富山・石川で多く出土していることから、中部圏との交流も盛んだったようである。

五箇山には平家の落人が住み着いたと伝えられている。1183年富山県石川県の県境にある倶利伽羅峠で、木曾義仲(源義仲)と平維盛平清盛の孫)が戦った(倶利伽羅峠の戦い)。この時、義仲は火牛の戦法で平家に大勝した。その残党が五箇山へ落人として逃げ隠れたとされる。物的証拠はないが、一部の五箇山の民家の家紋として残っているとされている。[何が?]

また、南北朝内乱期に、吉野朝遺臣によって地域文化が形成されたとも伝えられており、『五箇山誌』(1958年)には「五箇山の文化は吉野朝武士の入籠によって開拓され、五箇山の有史は吉野朝からである。養蚕・和紙製紙は吉野朝遺臣によって始められ、五箇山へ仏教が入って来たのは後醍醐天皇第八皇子、天台座主宗良親王によってである。」という説が紹介されている。

白山信仰による天台宗系密教の地域であったが、1471年文明3年)、浄土真宗(一向宗)本願寺八世蓮如が現在の福井県吉崎に下向し、北陸一帯が一向宗の勢力となり、この地域も浄土真宗に改宗したようである[1]。北陸一帯の地名には「経塚」なる地名が残っているが、この地域にも天台宗系のお経を埋めた地を、こう呼んでいる。

江戸時代1690年元禄3年)からは加賀藩の正式な流刑地となった。流刑場所は庄川右岸の8カ所で、軽犯罪者は平小屋と呼ばれる建物に収容され拘束の程度は緩かったが、重犯罪者は御縮小屋と呼ばれる小屋に監禁され自由を奪われていた。御縮小屋の一部は昭和年間まで残されていたが、1963年(昭和38年)の38豪雪の際に倒壊。1965年(昭和40年)に復元されたものが富山県の有形民俗文化財に指定され、流刑小屋として地域の名所となっている[2]加賀騒動大槻伝蔵もこの地へ流された。流刑地である五箇山には当地を流れる庄川に橋を掛けることが許されず、住民はブドウのつるで作った大綱を張り、籠をそれに取り付けて「籠渡し」として行き来した(現在は再現されたものが籠の渡しとして残っており、人の代わりに人形が川を越える)。

気象条件が厳しい五箇山では、江戸時代、年貢を米で納めることができなかった。1780年頃の宮永正運著「越の下草」によれば「水田はもとよりなくして、穀類も、大小豆に過ぎず・・・」とあり、稲作が絶望的であったことが窺える。住民は、商品作物などを井波町城端町(現在の南砺市)の商人(判方)を介して換金し、年貢を納めていたが、多くの場合、判方から前借を行い次年度に返済するという自転車操業的な生計を余儀なくされた。借金が返せずに土地を手放す農家が出る一方で、判方の方も貸し倒れや廃業が相次ぐなど貸借双方で厳しい環境であった。大きな気象害の年には、数年間の間、判方への借金の延納や藩への借米でしのぐこともあったが、生活環境の改善や向上には結びつかず、1837年天保の飢饉の際には住民の約4割が餓死している[3]

地理

周囲を1000メートル超の山々と庄川の峡谷に囲まれた陸の孤島で、五箇山から城端(富山平野側)に行くには難所中の難所の朴峠や人喰谷を超える必要があった。このような地理的に隔絶された環境から、加賀藩の流刑場として利用された。[4]

南方には人形山という姉妹の雪絵がある山があり、五箇山のシンボルの山となっている。雪絵の姉妹に関する悲しい伝説はまんが日本昔ばなしにも取り上げられている。

五箇山の集落周辺は景観保護のために五箇山県立自然公園に指定されている。


  1. ^ 南砺市教育委員会 編著『南砺の城と人-戦国の寺・城・いくさ- 山科本願寺から五箇山・瑞泉寺へ 山岳古道と砦跡 蓮如と赤尾道宗 : 南砺市立井波歴史民俗資料館118回企画展 : 見学会・シンポジウム(2016年<平成18年>6月3日・4日)資料集』 2008年
  2. ^ 流刑小屋 - 重い罪人は、住民と語ることもできなかった南砺市ふるさとミュージアム(2019年12月14日閲覧)
  3. ^ (富山県)上平村役場『上平村史 』上平村、1982年、p71,p96頁。 
  4. ^ 雪山の絶景。日本で唯一、流刑小屋が現存する世界遺産「五箇山」坂本正敬
  5. ^ Japan's 31 most beautiful places”. CNN. 2017年1月9日閲覧。
  6. ^ 『越中五箇山麦屋節保存会 百周年記念誌』(越中五箇山麦屋節保存会)2009年(平成21年)10月31日発行 127P


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