雑訴決断所 決断所の崩壊とその後の雑訴

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雑訴決断所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/10 13:54 UTC 版)

決断所の崩壊とその後の雑訴

雑訴決断所は上記のごとく膨大な訴訟事務を扱っていたが、建武2年(1335年)8月に足利尊氏中先代の乱の鎮圧を名目に鎌倉へ下り、建武政権から離反した後、尊氏を中心に内乱が激化したことに伴い、決断所の活動は急速に衰退。上記のごとく建武2年いっぱいをもって決断所発給の牒も見られなくなることから建武3年以降は機能も停止したと考えられる。延元元年(1336年)には、尊氏の還京と後醍醐天皇の吉野退去(いわゆる南北朝の分立)により建武政権自体が完全に消滅した。しかし決断所の職員の多くは、後に北朝の院政・親政や室町幕府の訴訟機関の構成員として引き続き法曹業務に携わったとみられる。建武政権における失敗の反省から、公家・武家の雑訴は分けられ、幕府・朝廷それぞれに訴訟機関が復活した。

室町幕府においては引付が復活し、鎌倉幕府と同様の機構をとったが、やはり足利氏一門が頭人を占有して形骸化し、引付衆は身分・格式を表す名目的な存在となっていく。代わってむしろ訴訟審理の主体となったのは政所であり、雑訴決断所に名を連ねた飯尾氏や斎藤氏は政所奉行人として幕府に仕えるようになった。

朝廷でもやはり前代と同様、院文殿や記録所が雑訴の審理機関として復活したことが、『園太暦』(洞院公賢)、『師守記』(中原師守)、『愚管記』(近衛道嗣)、『後愚昧記』(三条公忠)など北朝に仕えた公家の日記から窺える。光厳院政期(1336年 - 1352年)に復活した院文殿には、かつて雑訴決断所を構成した公家メンバーである平宗経・中御門宣明・甘露寺藤長らが名を連ね、やはり雑訴沙汰を扱っている[15]。続く後光厳親政期(1352年 - 1371年)には伏見天皇の例にならって記録所庭中で雑訴が取り扱われるようになったが[16]、その後譲位して後光厳院政期(1371年 - 1374年)になると再び院文殿で行われた。しかしこの頃から、群議を経た後に関白二条師良や近衛道嗣)の諮問が重視されたり、公家の雑訴沙汰は関連文書を幕府に提示し、最終決断を幕府に委ねる傾向が見られはじめる[17]。幕府側はむしろ院評定における雑訴審議を重んじようとしたが、観応の擾乱後の壊滅状態を経た北朝側は実力の低下を自覚し、幕府への依存体質を深めていったのである。この傾向は武家の棟梁でありながら公家政権における地位を高めることをも追求した3代将軍足利義満の時代にさらに加速し、後円融親政期(1374年 - 1382年)には記録所庭中も雑訴沙汰も全く形骸化し、ほぼ廃絶同然となっていったのである[18]

このように、雑訴沙汰は鎌倉時代の公武並立から、建武新政期の公武折衷型の雑訴決断所を経て、いったんは再び公武分立となったものの、南北朝時代を通じて次第に公家の雑訴審理機能が形骸化し、次第に幕府政所に蚕食される傾向を見出すことができる。すなわち、雑訴決断所は武家主導の室町幕府体制への移行過程の中で、武家側が公家の機能を吸収するきっかけとなったという意味で、重要な役割を果たした機関であったといえよう。


  1. ^ 『国史大辞典』「雑訴沙汰」。
  2. ^ 『勘仲記』弘安九年十二月三日・二十四日条。
  3. ^ 森2008、92p。伏見天皇伊勢神宮奉納宸筆宣命案「因茲近日徳政興行雑訴決断須留古止所及無疎簡之思所推無私曲之儀云々」。
  4. ^ ただし記録所と雑訴決断所の管轄区分は不明確であり、本領安堵にまつわる訴訟については、どちらに提訴するかは訴人の意志に任せたため、混乱の原因となった。
  5. ^ 『比志島文書』の当該文書は一部破損しているため総人数については不明であるが、判読できる64名をわずかに上回る程度と推測されている。
  6. ^ 阿部猛「雑訴決断所の構成と機能」(『ヒストリア』25所収)。
  7. ^ 笠原宏至「阿部猛『雑訴決断所の構成と機能』を読む」(『中世の窓』4所収)。
  8. ^ 森2008、93-94p。決断所結番交名の三番「忠顕朝臣」の注記に「頭中将」、四番「経季朝臣」の注記に「頭宮内卿・当職事」と記されているが、中御門経季は9月10日に蔵人頭・宮内卿に、千種忠顕も同日に従三位弾正大弼となっている。すなわち同じ日に補任を受けながら経季は現職、忠顕は前職を注記されているが、これは交名の成立とほぼ平行して作成されたためだとする。
  9. ^ 四番制から八番制への移行時期は、牒の署判形式の変化からみて、建武元年7月22日から8月26日の間(おそらく8月に入ってから)と考えられる(森2008、103p)。
  10. ^ 飯尾氏・斎藤氏はこの後、室町幕府政所の奉行人となっていく。
  11. ^ 現存する125通の内訳は、形式的に見れば牒が117通、下文が8通。宛所から分類すれば国衙宛が53通、守護所宛が27通、国衙ならびに守護所宛が4通、国上使宛が2通、その他(個人・寺社・衆中)が34通、不明が5通となっている(森2008、102p)。
  12. ^ 亀田、2013年、P122-124
  13. ^ 綸旨が雑訴決断所の牒なくしては施行されないことは円覚寺の僧侶契智の申状(建武元年3月頃)に「被成下綸旨国宣畢、仍可沙汰付寺家雑掌之旨、可成施行之由、度々申守護方之処、可申成牒之旨、返答云々」とあることから明らかである(小林1980、25p)。
  14. ^ 亀田、2013年、P120-121
  15. ^ 『園太暦』康永三年(1344年)二月廿七日条。森2008、168-169p。
  16. ^ 森2008、208-214p。
  17. ^ 森2008、266-268p。
  18. ^ 森2008、287-291p。


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