陳公博
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人物・来歴
広東省に生まれる。清朝の高官だった父親は広西提督を務めた。陳公博は北京大学に学び五四運動に参加、マルクス主義や社会主義に触れる。1920年に大学を卒業すると陳独秀らの指導の下中国共産党のオルグとして活動、翌1921年の中共一大会議に参加するが、後に共産党から脱党する。
共産党脱党後に渡米し、1925年コロンビア大学で修士号を取得。帰国後に中国国民党に入党し、廖仲愷や汪兆銘と共に国民党左派として活動する。北伐が始まると蔣介石や汪と共に北上するが、一時蔣に反旗を翻し武漢国民政府に参加。武漢国民政府解散後は張発奎・李済深と共に抵抗を続けるが1927年には香港へ亡命する。翌1928年に上海へ赴くが、国民政府に対して反主流的な言動を取り続ける。
満洲事変勃発後に蔣によって汪が行政院長になると実業部長を歴任するが、1936年に汪が行政院長を辞任すると陳も下野する。1938年に汪共々重慶を脱出し、対日和平を模索。1940年に至って汪兆銘政権が成立すると立法院長を務めると共に上海市長を兼任。1944年3月から政府主席代行、11月に汪が死去すると政府主席・行政院長・軍事委員会委員長を兼任した。
戦後の混乱時に、支那派遣軍総参謀副長今井武夫少将に申し出て、小川哲雄大尉の手引きで青島へ行く予定が情勢が危険なため日本へ向かい、盲目飛行で福岡県の雁の巣飛行場へ向かったが針路がずれ、1945年8月20日に鳥取県米子市三柳地区の飛行場へ降り立った。米子市、東伯郡東郷湖畔[1]、金閣寺などで匿われるが、国民政府の要請による連合軍命令により迎えにきた中国兵に引き渡され中国へ帰国する[2]。「南京偽政府を樹立し、中国国民の利益に反する行為を行なってきた」[3]との理由で1946年4月12日に死刑判決を受け、6月3日蘇州で銃殺された。
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