阿野鉱二
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 04:17 UTC 版)
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国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府堺市 |
生年月日 | 1948年1月1日(73歳) |
身長 体重 |
177 cm 77 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1969年 ドラフト2位 |
初出場 | 1970年 |
最終出場 | 1976年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
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この表について
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経歴
浜寺中学時代に捕手になる。明星高等学校では真田重蔵監督の指導を受け、1年生の1963年夏の甲子園に控え捕手として出場。堀川浩伸(法大)の好投もあって決勝に進み、下関商の池永正明との投手戦を2-1で制し、全国制覇を経験[1]する。この時の四番打者、正捕手は、中学の先輩である和田徹だった。2年生からレギュラー捕手になり、五番打者として1964年夏の甲子園に連続出場[1]するが、1回戦で大府高に敗れる。同年の秋季大阪大会では準決勝でPL学園に惜敗。1965年夏は府予選準決勝で興國高の谷博信投手らに抑えられ敗退した。高校同期に堀井和人中堅手がいる。
1966年4月に早稲田大学教育学部教育学専修に進学。東京六大学野球リーグでは在学中に2度の優勝を経験した。入学当時の正捕手は1966年秋季ベストナインの長倉春生であったが、その壁を越え、2年生から出場機会が増える。3年生の時には同期の小坂敏彦とバッテリーを組み、1968年秋季リーグに優勝。自身も首位打者となりベストナインに選出された[1]。リーグ通算57試合出場し184打数52安打、8本塁打、24打点、打率.283。1970年3月、早稲田大学教育学部教育学科専修卒業、学士(教育)(早稲田大学)。他の大学同期に谷沢健一外野手、荒川尭遊撃手、小田義人一塁手らがおり、自身も含め7人がプロ入りしている。
1969年のプロ野球ドラフト会議ドラフトで読売ジャイアンツから2位指名を受け入団。1970年にはジュニアオールスターゲームにも選出される。1971年には49試合に出場、うち28試合に先発マスクを被った。1974年にはイースタン・リーグで首位打者を獲得[1]。衰えの見える森昌彦の後継を吉田孝司と争うが、1973年以降は出場機会が減少。1975年の巨人ベロビーチキャンプで腹膜炎を起こし、その後は一軍に定着できず1976年限りで現役引退[1]。
引退後は巨人バッテリー兼トレーニングコーチに就任、1985年よりトレーニングコーチ専任となり1991年退団。その後は東京都中央区にある建設業スチールエンジ株式会社取締役会長[1]。
人物
トレーニングコーチとしての手腕は非常に高く、「巨人軍のストレッチング」という本を出版するほどの研究家であり、トレーニングコーチの草分け的存在だった[1]。
固有名詞の分類
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