辰巳四郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/12 03:17 UTC 版)
人物・作風
早稲田大学法学部卒業後、武蔵野美術大学に学んだ。ペン・鉛筆・筆・エアーブラシ等を使い、ヒヤリとした雰囲気の中に見る者を引きつける抽象画、緻密でありながら大胆なリアルイラストレーション、装幀では多重露光を用い、写真とイラストをフィルム上で合成するなど、常に新しい表現に挑戦しながら多種多様な作品を発表した[3]。
電通に勤務していた頃から優れたブックデザイナーとして知られ、独立後はフリーのイラストレーターとして広告・エディトリアルなどを手掛け、晩年はデザイナーとして小説のブックカバーや装幀・装画の分野でも第一人者となった。特に講談社ノベルスをはじめとするミステリー小説の興隆を後押しした陰の立役者として、綾辻行人の『十角館の殺人』から始まった新本格ミステリ小説や京極夏彦・森博嗣らメフィスト賞受賞者の作品の装幀を一手に引き受け、90年代のミステリー小説ブームは辰巳のデザイン抜きでは語れないと言われるほどであった[1][3]。
来歴
- 1938年 - 東京都目黒区下目黒で出生。
- 1946年 - 父方の故郷・滋賀県愛知川に疎開。
- 1947年 - 父病死、東京へ戻る。
- 1950年 - 中野区立第五中学校入学。
- 1953年 - 都立石神井高校入学。
- 1957年 - 早稲田大学第一法学部入学。美術研究会に入部。
- 1959年 – 早稲田祭のパンフレットの表紙コンテストで金賞を受賞。審査員の亀倉雄策に出会い、デザイナーという職業を知る。
- 1961年 - 早稲田大学卒業。同時に武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)本科デザイン科(商業デザイン専攻)に入学。
- 1962年 - 日本宣伝美術会展(日宣美)初入選。1965年まで3年連続で入選。
- 1965年 - 武蔵野美術大学卒業。電通入社。
- 1966年 - 「カフカ全集・審判」が日宣美特選に選ばれる。当時は、朝日広告賞、毎日広告賞などさまざまなコンペで賞金稼ぎに専念していた。
- 1967年 - 「ボードレール」「吠える」「法王庁の抜け穴」「ある微笑」の4点が日宣美特選、他2点が入選[4]。
- 1968年 - 電通退社。フリーデザイナーになる。
- 1972年 - 「派兵」イラストでADC賞銀賞受賞。
- 2003年 - 11月5日、心不全により新宿三丁目のアトリエで死去。享年65。
受賞歴
- 日本宣伝美術会展
- 入選(1962年)
- 入選(1963年)
- 入選(1964年)
- 特選(1966年) - 「カフカ全集・審判」
- 特選(1967年) - 「ボードレール」「吠える」「法王庁の抜け穴」「ある微笑」の4点[4]
- 入選(1967年) - 2点
- ADC賞
- 銀賞 - 「派兵」イラスト
注釈
出典
- ^ a b c “辰巳四郎.comへようこそ!”. 辰巳四郎イラスト・ギャラリー EPOCH ROUNS!. 2019年6月24日閲覧。
- ^ “藤森玲子プロフィール”. アートカンパニータイクーン. 2019年6月24日閲覧。
- ^ a b “音のない叫び-辰巳四郎展 - リクルートの2つのギャラリー”. リクルート (2004年11月29日). 2015年11月25日閲覧。
- ^ a b https://www.shirotatsumi.com/prize.php 辰巳四郎イラスト・ギャラリー[受賞作品]
- ^ “寺山修司没後35年 満ち足りることのない再演”. 好書好日. 朝日新聞 (2018年11月14日). 2019年6月24日閲覧。
- ^ “汐留のアド・ミュージアムで昭和の広告展 -1970年代・80年代”. excite ism. Excite エキサイト (2009年8月22日). 2016年4月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月24日閲覧。
固有名詞の分類
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