藤原縄麻呂 藤原縄麻呂の概要

藤原縄麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 15:49 UTC 版)

 
藤原 縄麻呂
時代 奈良時代
生誕 天平元年(729年
死没 宝亀10年12月13日780年1月24日
別名 縄万呂、綱麻呂
官位 従三位中納言従二位大納言
主君 聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇光仁天皇
氏族 藤原南家
父母 父:藤原豊成、母:藤原房前の娘
兄弟 武良自継縄乙縄縄麻呂中将姫
テンプレートを表示

経歴

藤原豊成の末男(四男)であったが、聖武朝最末年の天平感宝元年(749年)4月に兄弟でいち早く従五位下叙爵し、侍従に任ぜられる。孝謙朝侍従兵部少輔を務めたのち、淳仁朝でも引き続き侍従を務めると共に礼部大輔などを歴任し、この間天平宝字5年(761年)従五位上、天平宝字8年(764年)正月に正五位下と順調に昇進する。

同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱に際しては孝謙上皇側に加勢し従四位下参議に叙任され公卿に列する。さらに翌天平神護元年(765年)正月には乱における功労により勲三等叙勲され、まもなく正四位下に昇進した。称徳朝では、御前騎兵将軍・民部卿勅旨大輔・侍従などを歴任する一方、天平神護2年(766年)正四位上、神護景雲2年(768年従三位と引き続き順調に昇進した。

神護景雲4年(770年)に称徳天皇が崩御すると、左大臣藤原永手らと共に白壁王を皇嗣に擁立(光仁天皇)する[1]。翌宝亀2年(771年中納言。光仁朝では議政官として皇太子傳・勅旨卿・中衛大将を兼任した。宝亀8年(777年)の内大臣藤原良継の薨去等により、大臣であった大中臣清麻呂藤原魚名に次ぐ太政官第三位の席次にまで昇る。宝亀10年(779年)7月に朝廷の実力者であった参議・藤原百川の薨去以降は、その後を継いで朝政にあたったが[2]、同年12月13日薨去。享年51。最終官位は従三位中納言兼勅旨卿侍従勲三等。即日、従二位大納言の官位を追贈された。

官歴

続日本紀』による。


  1. ^ 『続日本紀』宝亀元年8月4日条
  2. ^ 『続日本紀』宝亀10年12月13日条
  3. ^ a b c 『公卿補任』


「藤原縄麻呂」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「藤原縄麻呂」の関連用語

藤原縄麻呂のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



藤原縄麻呂のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの藤原縄麻呂 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS