藤原乙縄とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 藤原乙縄の意味・解説 

藤原乙縄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 15:43 UTC 版)

 
藤原 乙縄
時代 奈良時代
生誕 不詳
死没 天応元年6月6日781年7月1日
別名 弟縄
官位 従四位上参議
主君 称徳天皇光仁天皇桓武天皇
氏族 藤原南家
父母 父:藤原豊成、母:路虫麻呂の娘
兄弟 武良自継縄乙縄縄麻呂中将姫
清岳岡継
テンプレートを表示

藤原 乙縄(ふじわら の おとただ)は、奈良時代公卿。名は弟縄とも記される。藤原南家右大臣藤原豊成の三男。官位従四位上参議

経歴

天平勝宝9歳(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱に際して、普段から橘奈良麻呂と親しかったことを理由に[1]、乱に与したとして日向員外掾左遷される(この時の位階正六位上)。また、父・豊成右大臣を免職されて大宰員外帥に左遷されている。

天平宝字8年(764年)10月に藤原仲麻呂の乱が発生すると、従五位下叙爵して官界に復帰する。こののち、称徳朝では大蔵大輔大判事を歴任し、神護景雲2年(768年)従五位上に昇叙される。

神護景雲4年(770年)称徳天皇崩御後まもなく、一挙に三階昇進し従四位下に叙せられるが、同年土佐守次いで美作守と地方官に転じる。宝亀3年(772年弾正尹として京官に復すと、宝亀9年(778年)従四位上、宝亀10年(779年参議兼刑部卿と光仁朝末にかけて再び昇進する。

桓武天皇即位後まもない、天応元年(781年)6月6日卒去。最終官位は参議従四位上守刑部卿。

官歴

続日本紀』による。

系譜

尊卑分脈』による。

脚注

  1. ^ 続日本紀』天平神護元年11月27日条
  2. ^ 尊卑分脈』では清岳の母を「異母妹正三善集朝臣女」とする

出典




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「藤原乙縄」の関連用語

藤原乙縄のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



藤原乙縄のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの藤原乙縄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS