藤原縵麻呂とは? わかりやすく解説

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藤原縵麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/14 09:18 UTC 版)

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藤原縵麻呂
時代 奈良時代後期 - 平安時代初期
生誕 神護景雲2年(768年
死没 弘仁12年9月21日821年10月20日
官位 従四位下大舎人頭
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原種継、母:雁高佐美麻呂娘
兄弟 仲成縵麻呂山人、藤生、井出湯守、世嗣安継?、薬子、東子
貞成、城成
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藤原 縵麻呂(ふじわら の かずらまろ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての貴族藤原式家中納言藤原種継の次男。官位従四位下大舎人頭

経歴

延暦4年(785年)父の藤原種継暗殺されてまもなく、兄・仲成とともに従五位下に叙せられ、翌延暦5年(786年皇后宮大進に任ぜられる。桓武朝において、大判事といった京官や、相模介相模守因幡守豊前守等の地方官を歴任する。またこの間の延暦23年(804年)には正五位下から正五位上に昇叙されている。平城天皇即位を挟んで、大同3年(808年)迄には従四位下右大舎人頭に叙任され、同年美濃守を兼ねている。

弘仁元年(810年薬子の変が発生し兄弟の仲成・薬子が死亡するが、縵麻呂は難を逃れたらしく、翌弘仁2年(811年)大舎人頭に任ぜられている。弘仁12年(821年)9月21日卒去享年54。

人物

愚鈍な性質で、書類作成もままならなかった。大臣(種継)の子息であることを以て、内外の諸官を歴任したが、どの官職でも名声を得ることはできなかった。ただ酒色のみを好み、他事を顧みる事はなかったという[1]

一方で、薬子の変で失脚した藤原仲成・薬子の兄弟であったことから、『日本後紀』にある「酒と女性を好んだ」という記述は保身のための行為で、人目を欺くためにのめりこんだものとする考えもある[2]

官歴

六国史』による。

系譜

尊卑分脈』による。

  • 父:藤原種継
  • 母:雁高佐美麻呂の娘
  • 妻:不詳
    • 男子:藤原貞成
    • 男子:藤原城成

脚注

  1. ^ 日本後紀』弘仁12年9月21日条
  2. ^ 遠藤慶太 『六国史 -日本書紀に始まる古代の「正史」』 中公新書 2016年 p.107.
  3. ^ 『尊卑分脈』

出典




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