石上三登志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 14:12 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動人物
電通でCM制作に携わる傍ら、1960年代から映画・SFなどの評論活動をおこなってきた[2]。大林宣彦監督の映画を中心に、俳優としての活動もある。
ペンネームの由来は、石の上にも三年[1][3]。美術監督の今村力は、従兄弟[4]。
来歴
東京都世田谷区池尻出身[1]。福島県立磐城高等学校、明治大学文学部文学科(英米文学専攻)卒業。早稲田大学で結成されたワセダミステリクラブ(仁賀克雄、間羊太郎、山口剛、西田恒久ら)に、特別に参加。また、ワセダミステリクラブで知り合った曽根忠穂や宮田雪らと同人誌『OFF』の活動をした[5]。
大学を卒業するにあたって、石上が漫画や映画に詳しいことから親に紹介された遠い親戚である東映動画の製作部長だった藪下泰司に就職の相談をし、東映動画への就職は断られが、藪下の昔の仲間がやっていたテレビCMプロダクション京映へアルバイトを経て[6]1961年に入社[5]。第一企画を経て[7]、1964年に先輩の誘いで電通へ移籍した[8][9]。
電通ではラジオ・テレビ企画制作局に配属され[8]。レナウンのイエイエなどのテレビCM制作に携わる傍ら[10]、1966年から『映画評論』誌の読者投稿欄「読者論壇」に投稿を始める。このときに本名が嫌いだったこともあり、石上三登志のペンネームを初めて使う。採用が続くうちに編集長の佐藤重臣から原稿依頼を受け、投稿開始8ヶ月目の1966年10月号でライターとしてプロデビューした[3]。
1973年8月下旬号から1979年1月下旬号まで、TVムービーの映画評を断続的に『キネマ旬報』に掲載[11]。この連載は後述の『私の映画史―石上三登志映画論集成』に収録されている。
1970年代後半のSF映画ブームの頃には、「SF映画評論家」「スター・ウォーズ評論家」の異名をとる[12]。
1977年に創刊された『映画宝庫』の責任編集を筈見有弘、増淵健らとともに担当[2]。
同じく1977年には東宝の田中文雄からの依頼で『惑星大戦争』の企画に協力。1978年には電通の仕事として東映のSF映画『宇宙からのメッセージ』の広告を担当した。『キネマ旬報』に東宝のプロデューサー田中友幸論を執筆したことから、田中友幸との関係ができ、1978年に設置されたゴジラ復活会議に参加[13]。1984年に復活した『ゴジラ』に携わることになった[14]。
毎日映画コンクールや藤本賞の審査員を歴任した他[2]、1997年開始の手塚治虫文化賞の審査員を第6回(2002年)まで務めた。
1999年に電通を定年退職。電通で最後に手掛けた仕事である川崎市に建設予定のテーマパーク手塚治虫ワールドの断念が2002年に発表される[15][16]。
その後も日本映画衛星放送(日本映画専門チャンネル・時代劇専門チャンネル)、ジェイ・スポーツ(J SPORTS)の番組審議会委員を務めていた[17][18]。
2012年11月6日、骨髄がんのために死去[19][20]。73歳没。
映画
出演
- HOUSE ハウス (1977年、大林宣彦)
- 瞳の中の訪問者(ブラック・ジャック (実写版)) (1977年、大林宣彦) 兼アドバイザー[1]
- 俗物図鑑 (1982年、内藤誠)
- 星くず兄弟の伝説(1985年、手塚眞)
- 野ゆき山ゆき海べゆき (1986年、大林宣彦) 声演
- 白痴 (1999年、手塚眞)
- 淀川長治物語・神戸篇 サイナラ (2000年、大林宣彦)
- 理由 (2004年、大林宣彦)
脚本
- けんかえれじい (1966年、鈴木清順) 脚色協力・ノンクレジット[1]。
- 殺しの烙印 (1967年、鈴木清順) 脚色協力・ノンクレジット[1]。
- 竹取物語 (1987年、市川崑) 脚本共作
- 漂流教室 (1987年、大林宣彦) 潤色
その他
- 多様な国土 (1985年、監督:大林宣彦、音楽:冨田勲、つくば万博日本政府館の70ミリ映像) 製作・構成[1]。
- しらぬい (1992年、製作会社:電通ブロックス、五藤光学研究所、脚本+演出:日笠宣子、ドーム70mm映像(アストロビジョン)、30分、映文連登録番号:15035) 製作[1]。
- ^ a b c d e f g h 佐藤忠男 『日本の映画人―日本映画の創造者たち』 (2007年、日外アソシエーツ)
- ^ a b c 森卓也、石上三登志 「海外アニメーションの歴史と現在〜オールタイム・ベストを振り返って」『オールタイム・ベスト 映画遺産 アニメーション篇』キネマ旬報特別編集、キネマ旬報社、2010年、p.129。石上三登志プロフィールより。
- ^ a b 石上三登志 「『映画ノート』はドタバタ史 28 趣味?仕事?石の上にも三年?』周囲の人々」『キネマ旬報』2011年5月下旬号、pp.82-83
- ^ 石上三登志、樋口真嗣 「東宝特撮の歴史とその魅力を繙く」『キネマ旬報』2009年9月下旬号、p.32
- ^ a b 石上三登志「『映画ノート』はドタバタ史 23 映画同人誌を作ろう!」『キネマ旬報』2010年11月下旬号、pp.106-107
- ^ 石上三登志『映画ノート』はドタバタ史 22 手塚さんには会ったけど……」『キネマ旬報』2010年10月下旬号、p.109
- ^ 石上三登志 「『映画ノート』はドタバタ史 25 『OFF』周囲の人々」『キネマ旬報』2011年1月下旬号、pp.98-99
- ^ a b 石上三登志「『映画ノート』はドタバタ史 30 われら"ワイルドバンチ"!!」『キネマ旬報』2011年6月下旬号、p.84
- ^ 石上三登志 アートスペース・サンカイビアステックス公式サイト内
- ^ 石上三登志「『映画ノート』はドタバタ史 31 『2001年』の近所の小宇宙」『キネマ旬報』2011年7月上旬号、pp.102-103
- ^ 三谷幸喜「三谷幸喜のありふれた生活607」『朝日新聞』2012年11月23日付第27面
- ^ 石上三登志 「SF黎明期の日本に上陸した『スター・トレック』が長く愛された理由」『キネマ旬報』2009年6月下旬号、p.69
- ^ 木原浩勝、志水俊文、中村哲編 『ゴジラ 東宝特撮未発表資料アーカイヴ プロデューサー・田中友幸とその時代』 角川書店、2010年、p.16
- ^ 石上三登志、樋口真嗣 「東宝特撮の魅力とその歴史を紐解く」『キネマ旬報』2009年9月下旬号、pp.32-37
- ^ 岡田斗司夫、唐沢俊一、眠田直、切通理作、氷川竜介、米沢嘉博 『日本オタク大賞』扶桑社、2003年、pp.161、220
- ^ 手塚ワールドの建設断念 長引く不況が背景 共同通信 2002年11月5日
- ^ “日本映画衛星放送株式会社 第 30 回番組審議会議事録 (PDF)”. 日本映画衛星放送 (2012年11月13日). 2015年1月31日閲覧。
- ^ “株式会社ジェイ・スポーツ 2011年度第2回番組審議会議事録”. ジェイ・スポーツ (2011年11月8日). 2012年8月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月31日閲覧。
- ^ 石上三登志さん逝去 東京創元社 2012年11月11日閲覧
- ^ 映画評論家の石上三登志氏が死去 読売新聞 2012年11月12日 2012年11月12日閲覧
- ^ “日本のテレビCM史の流れを変えた異才 - 今村昭物語(13)”. 電通報 (2016年11月19日). 2016年11月19日閲覧。
- ^ “今村昭 検索結果”. 放送ライブラリー. 放送番組センター. 2016年12月6日閲覧。
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