波留敏夫
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オリックス・バファローズ 育成チーフコーチ #90 | |
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![]() 中日ドラゴンズコーチ時代 2016年8月12日 阪神鳴尾浜球場にて。 | |
基本情報 | |
国籍 |
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出身地 | 京都府京都市東山区(現:山科区) |
生年月日 | 1970年5月25日(53歳) |
身長 体重 |
174 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、遊撃手、三塁手 |
プロ入り | 1993年 ドラフト2位(逆指名) |
初出場 | 1994年7月3日 |
最終出場 | 2004年5月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
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この表について
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現役時代は横浜ベイスターズの上位打線で闘志を剥き出しにしたプレーを見せ、「ハマの核弾頭」[1]「突貫小僧」の愛称を持った[2]。
経歴
プロ入り前
大谷高等学校から、社会人野球の熊谷組へ入部。1992年の第63回都市対抗野球大会で準優勝。翌年も出場して優秀選手賞獲得[3]。
1993年度ドラフト会議にて横浜ベイスターズから2位指名(逆指名)を受けて入団。担当スカウトは松岡功祐[4]。
横浜時代
1994年は内野手として登録され、シーズン中盤より一軍に定着。終盤には怪我で戦線離脱した進藤達哉に代わり遊撃手として多く出場する。内野では三塁手も守ったほか、中堅手も多く守り、最終的には53試合に出場した。
1995年は中堅手として多く出場。初めて規定打席に到達し、打率三割を記録。調子や相手先発投手の利き腕に合わせ、同い年の石井琢朗と入れ替わりで1、2番打者を務めた。
1996年は、開幕から1番打者に固定されるなど好調だったが、徐々に調子を落とす。鈴木尚典、佐伯貴弘らとのし烈な外野のレギュラー争いに勝つことができず、規定打席未達に終わる。
1997年は開幕から好調を維持し、前年から石井が1番打者に定着したことにより、2番打者に固定された。打率.295の好成績を残し、自身二度目の規定打席到達を果たすも、同年オフの11月にプロ野球脱税事件への関与が発覚。
1998年の開幕から6週間の出場停止処分を受ける。横浜球団独自の方針で謹慎中は二軍戦にも出られなかったが、5月16日の中日ドラゴンズ戦で1番・中堅手で復帰する。調整不足からしばらく調子が出なかったが、7月には月間MVPを受賞するなど調子を取り戻し、マシンガン打線の2番打者として横浜の38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献した[注 2]。
1999年は打率.298を記録し、2番打者ながらキャリア・ハイとなる15本塁打、70打点、21盗塁を記録した。
2000年も開幕から好調をキープするも、足の怪我で戦線を離脱。以後閉幕まで一軍復帰できず60試合の出場に留まった。
2001年には背番号を1へ変更。新監督の森祇晶の方針により金城龍彦と入れ替わる形で三塁手に再転向するも、シーズン序盤に種田仁、山田博士とのトレードで中日ドラゴンズへ移籍[注 3]。
バイプレーヤー的な存在の内野手と先発中継ぎの両方ができる投手を求めていた森監督が、中日の星野仙一監督に無理を承知で直談判し、異例のシーズン中の同一リーグ間でのトレードが実現した[5]。なお、このトレードはシーズン途中での年俸1億円の選手の初のトレード例となった。
中日時代
2001年は8月16日の読売ジャイアンツ戦(ナゴヤドーム)で移籍後初本塁打となる[6]代打満塁本塁打を放つ[7]活躍があったが、故障の影響で打率.240、1本塁打、20打点と成績は低迷[8]。
2002年11月15日、酒井忠晴とのトレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍することが発表された[9][10]。推定年俸7000万円(2000万円減)で、背番号は8[11]。
ロッテ時代
2003年も打率1割台と不振が続いた。
2004年の埼玉西武ライオンズとの開幕戦(西武ドーム)で1番・中堅手として開幕スタメンを果たす。しかし、不振を脱することはできず、オフに球団から戦力外通告を受け、現役を引退した。
現役引退後
解説者時代
2005年は主にJ SPORTS、スカイ・A、テレビ神奈川の解説者として活動。また、社会人野球・クラブチームの熊球クラブに外野手として所属。
横浜・DeNAコーチ時代
2006年は古巣・横浜の一軍外野守備・走塁コーチに就任。2007年からは一軍打撃コーチに配置転換されたが、2009年に一軍外野守備・走塁コーチに復帰した。その後、2010年に一軍打撃コーチに復帰したが、前年度から2年連続となるチーム打率12球団最下位を記録するなど打線も低迷した。2011年からは二軍打撃コーチ、2013年からは再び一軍打撃コーチに復帰した。しかし、7月4日の対東京ヤクルトスワローズ戦前にチーム状況の認識を巡って池田純球団社長と口論になったと報じられた[12]。10月9日、今シーズン限りで退団することが発表された[13]。
中日コーチ時代
2014年からは中日の一軍外野守備走塁打撃コーチに就任[14]。山崎武司によると、同年から選手兼任監督に就任した谷繁元信(横浜、中日時代の同僚)が唯一連れてきたコーチが同じ年の波留だという[15]。2016年は二軍打撃コーチに配置転換されたが、2017年からは一軍打撃コーチに配置転換された。その後、2020年からは再び二軍打撃コーチに配置転換された[16]が、2022年5月23日に中村紀洋と入れ替わりで再び一軍打撃コーチに復帰した[17][18]。しかし、6月12日の北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム:セ・パ交流戦)では5回表の攻撃前の円陣で「目覚ませもっとお前ら!いつまで甘えてやってんねん野球!その気でやらんかいアホ!」とゲキを飛ばしたが、結局その後も得点を上げることはできず、22イニング無得点となり、チームも6連敗を喫した[19]。10月13日、今シーズン限りで退団することが発表された[20]。
オリックスコーチ時代
2023年からはオリックスの育成チーフコーチに就任[21]。
選手としての特徴・人物
俊足巧打と闘志満々なプレーが持ち味[1]。1998年にはバントをしない攻撃的で勝負強い2番打者として横浜の38年ぶりの日本一に大きく貢献した[22][23]。
現役時代の1999年(当時は横浜に在籍)、グラブは6本分指が入るものを使っていたと話していたことがある。当時は主に外野手をしていたこともあり、「内野手をやっていたので、どうしても中指と人差し指を重点的に使ってしまうが、それだと外野手のグラブとしてバランスが良くない。そこで小指の所に指が入る袋を二つ作ってもらって、そこで小指と薬指が使えるようにしました」ということだったという[24]。
ロッテへの移籍直後、マリーンズ応援団が波留に対して語呂合わせで日本童謡の「春が来た」の替え歌を応援歌にしたところ、これを見た波留が激怒し、別の曲に変更となった[25]。
打撃コーチとしては、相手投手との間を重要視した指導を主に行っている[26]。
注釈
出典
- ^ a b “波留敏夫”. VICTORY ALL SPORTS NEWS (2017年8月29日). 2021年3月13日閲覧。
- ^ “石井琢朗、波留敏夫、鈴木尚典、ローズ、駒田徳広、佐伯貴弘・中根仁、進藤達哉&谷繁元信「横浜マシンガン打線の“弾丸”」/プロ野球20世紀の男たち | 野球情報”. 週刊ベースボールONLINE (2019年12月26日). 2021年3月13日閲覧。
- ^ '94スポニチプロ野球手帳
- ^ “中日2軍コーチに松岡功祐氏招へい”. 日刊スポーツ (2014年10月22日). 2022年1月10日閲覧。
- ^ “【4月20日】2001年(平13) 横浜と中日 掟破りの同一リーグのシーズン中トレード”. スポーツニッポン (2011年4月20日). 2011年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年5月27日閲覧。
- ^ 「セリーグ 第21節 16日 竜の意地 G戦3連勝」『中日新聞』(中日新聞社)、2001年8月17日、朝刊 運動2面24頁。2023年2月3日閲覧。
- ^ “竜G斬り3連勝 波留男代打の満塁弾”. 中日スポーツ. 中日新聞社 (2001年8月17日). 2001年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月3日閲覧。
- ^ 「D 秋に鍛える(11) 波留敏夫 技術高める」『中日新聞』(中日新聞社)、2001年11月9日、朝刊運動1面27頁。2023年2月3日閲覧。
- ^ 「波留と酒井を交換」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2002年(平成14年)11月16日付朝刊、18面(スポーツ面)。
- ^ 「中日 波留ロッテへ 酒井は古巣に」『中日新聞』(中日新聞社)、2002年11月16日、朝刊 朝刊運動1面27頁。2023年2月3日閲覧。
- ^ 「ロッテの波留、誕生」『中日新聞』(中日新聞社)、2002年11月30日、朝刊 朝刊運動1面27頁。2023年2月3日閲覧。
- ^ “DeNA社長と波留コーチ大げんか”. 日刊スポーツ. (2013年7月9日) 2021年11月5日閲覧。
- ^ 『2014年度コーチ契約について』(プレスリリース)横浜DeNAベイスターズ、2013年10月9日 。2014年10月13日閲覧。
- ^ 『来季のスタッフについて』(プレスリリース)中日ドラゴンズ、2013年10月22日 。2014年10月13日閲覧。
- ^ “古巣・中日にモノ申す! “谷繁イズム”見えない”. ZAKZAK (2014年9月11日). 2014年10月13日閲覧。
- ^ “来季コーチングスタッフのお知らせ”. 中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト (2019年11月23日). 2020年12月16日閲覧。
- ^ “【中日】中村紀洋1軍打撃コーチと波留敏夫2軍打撃コーチが入れ替え「監督の判断です」球団首脳”. 日刊スポーツ. (2022年5月23日) 2022年5月23日閲覧。
- ^ “中日・中村紀打撃コーチ 2軍に配置転換”. デイリースポーツ online (2022年5月24日). 2022年6月10日閲覧。
- ^ “【中日】6連敗の立浪和義監督「気合を入れてくれた」 円陣で猛ゲキの波留打撃コーチに理解”. スポーツ報知 (2022年6月12日). 2022年6月15日閲覧。
- ^ “【中日】波留打撃コーチ、英智育成野手コーチ、小笠原2軍投手コーチが退団:中日スポーツ・東京中日スポーツ”. 中日スポーツ・東京中日スポーツ. 2022年10月13日閲覧。
- ^ “新コーチングスタッフ決定”. オリックス・バファローズ (2022年11月7日). 2022年11月18日閲覧。
- ^ “週べが選んだ12球団コーチングスタッフ勝手にベストナイン!/中日編 | 野球情報”. 週刊ベースボールONLINE (2019年3月22日). 2021年3月13日閲覧。
- ^ “「1970年」名球会3人&マシンガン打線4人の“谷繁世代”/世代別ベストナイン | 野球情報”. 週刊ベースボールONLINE (2018年5月9日). 2021年3月13日閲覧。
- ^ 別冊ベースボール『よみがえる1990年代のプロ野球 PART6』(2021年6月30日刊)82頁(元記事:週刊ベースボール 1999年7月5日号内、本人のインタビュー)
- ^ “中日ドラゴンズの「お前禁止」で話題のプロ野球応援歌 過去にもあった珍事件簿”. 日刊サイゾー (2019年7月5日). 2021年4月18日閲覧。
- ^ “【中日好き】ビシエドから学ぶ事”. J SPORTS (2018年9月16日). 2023年7月23日閲覧。
固有名詞の分類
日本の野球選手 |
玉木朋孝 堤雅貴 波留敏夫 釣常雄 橿渕聡 |
中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 |
三好真一 外山博 波留敏夫 秋田秀幸 山本昌 |
横浜ベイスターズ及びその前身球団の選手 |
平野謙二 日下正勝 波留敏夫 ショーン・ソニア 手塚明治 |
千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 |
ウェス・チェンバレン フアン・ムニス 波留敏夫 ダレル・ウィットモア ボブ・マクローリー |
野球指導者 |
稲川誠 玉木朋孝 波留敏夫 ブランチ・リッキー 山沖之彦 |
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