毛利就隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 12:50 UTC 版)
系譜
- 父:毛利輝元(1553-1625)
- 母:清泰院(1572-1604) - 児玉元良の娘。
- 正室:毛利松菊子(1611-1677) - 毛利秀元の長女。
- 継室:禅海院(?-?) - 名は加祢子。中川重政の娘。
- 長男:毛利千代松丸(1663-1668) - 寛文3年1月27日(1663年3月6日)に江戸三田邸で出生。寛文8年4月14日(1668年5月24日)没。享年6。法名は盛岩院殿月庭露心童子。墓所は江戸麻布の春桃院。
- 次男:毛利岩松丸(1664-1668) - 寛文4年1月27日(1664年2月23日)に江戸三田邸で出生。寛文8年11月6日(1668年12月9日)没。享年5。法名は瑞鳳院殿感嶺宗格童子。墓所は江戸麻布の天真寺。
- 六女:千代春子(1665-1700) - 下総高岡藩3代藩主・井上政蔽正室。寛文5年1月10日(1665年2月24日)に江戸三田邸で出生。元禄12年11月17日(1700年1月6日)没。享年35。法名は秋葉院殿法順元正大姉。墓所は青松寺。
- 四男:毛利千寿丸(1669-1673) - 寛文9年5月17日(1669年6月15日)に江戸三田邸で出生。寛文13年4月11日(1673年5月27日)に渋谷下邸で死去。享年5。法名は惺窓涼夢童子。墓所は江戸三田寺町の玉鳳寺。
- 五男:毛利元賢(1670-1690) - 徳山藩2代藩主。
- 七女:好春(1672) - 別名は一本作幸春子。寛文12年(1672年)7月に江戸三田邸で出生。同年8月2日(1672年9月22日)没。法名は露英幻華童女。墓所は江戸三田寺町の玉鳳寺。
- 側室:性雲院(?-1705) - 名は銀子。京都の紺屋の娘。元は就隆の継室・禅海院の侍女。宝永元年12月21日(1705年1月16日)没。
- 家女房:永心寺殿(?-?) - 名は良子。富山兵部の娘。
- 家女房:清涼院(?-?) - 名は滝子。佐藤隆信(出雲守)の娘。
- ^ 分知されたのは元和7年(1617年)だったが、寛永11年(1634年)までは「内証分知」で、分知が正式に将軍に認知されていなかった。なお、分知の打渡坪付は萩藩の当職を務めた井原元以から、就隆の傅役である粟屋元相に宛てられている。
- ^ 桂元綱は武に秀でて国元の仕置きを担当し、神村元種は知に優れて専ら江戸での活動を担当した。この2人は就隆の傅役の粟屋元相の内申により、就隆が窮屈に思うような人柄の人物として選ばれたとされる。
- ^ 富海村は元々、萩藩永代家老の福原広俊の知行地であった。そのため、輝元と秀就は就隆の領地替えを許可した翌日に広俊に詫びている。
- ^ 『毛利家文書』第1265号、寛永元年(1624年)10月14日付、毛利就隆起請文。
- ^ この時期の秀元は秀就と不和となっており、萩藩とは別に直接幕府との密接な関係を築きたかったためと考えられている。
- ^ 寛永8年(1631年)に毛利秀元の四女・長菊子が、永井尚政の嫡男・尚征と婚姻している。
- ^ 秀元は慶長7年(1602年)、慶長11年(1606年)、慶長12年(1607年)に普請役を務めたが、秀就の後見として在江戸となると、3度の普請の功労により、慶長13年(1608年)の駿府城再普請以降は普請役の分担を免除されていた。就隆も慶長16年(1611年)に長門国萩へ帰国する秀就に代わり証人として在江戸となると、秀元同様に普請役の分担を免除された。
- ^ 下松藩は萩藩の支藩であったため、萩藩主の秀就を通して申請され、幕府からの許可も秀就を経由して就隆へ届けられた。幕府からの許可が下りたことを就隆に伝える同年6月30日の秀就の書状からは、秀就も許可が下りたことを喜んでいる様子が窺える。この後、就隆は老中の阿部忠秋に御礼として茶を贈った。
- ^ 時鐘が設置された一帯は現在「鐘楼町」と呼ばれ、「旧藩鐘楼跡」の石碑が残されている。
- ^ 『徳山市史 上』681頁。
- ^ 『下松市史 通史編』269頁。
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