下松藩成立
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元和3年(1617年)4月28日、秀就から周防国都濃郡に3万1473石8斗3升9合を内分分知され、付家老として桂元綱と神村元種が派遣された。 元和7年(1621年)7月9日、毛利秀元の娘・松菊子と婚姻する。 就隆に当初与えられた所領は山間部の村々が多かったことから、就隆は輝元と秀就に領地替えを再三申し出て、元和7年(1621年)12月2日に領地替えを許可された。この領地替えによって、当初与えられていた串浜、久米村、末武村、下谷村、須々万村、中須村、切山村、莇地村、須万村のうちの金峰と兼田を萩藩へ返還し、周防国都濃郡の富田村、矢地村、福川村、大向村、四熊村、大道理村、周防国佐波郡の富海村、長門国阿武郡の奈古村、大井村が新たに与えられ、所領は3万1072石3斗8升2合2勺となった。石高こそ約400石減少しているが、山間部と海岸部との交換であるため、実質的には有利になっている。 寛永8年(1631年)、下松の館邸が竣工し、寛永11年(1634年)3月19日に就隆への分知が幕府から公認されて下松藩の初代藩主となった。
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