橘家圓蔵 (8代目)
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来歴・人物
東京府東京市(現在の東京都江戸川区)平井出身[1]。生涯を通して平井に在住していたため、『平井の師匠』という通り名があった[1]。
1960年代から1980年代にかけて「ヨイショの圓鏡」の異名で、落語家としてもラジオスターとしても一時代を築いた。徹底的に明朗かつ座持ちの良い芸風で、座敷(旦那衆相手に幇間よろしくヨイショで稼ぎまくっていた)[要出典]のみならず、高座、ラジオ、テレビ、CMを問わず大活躍し、圓鏡の声が聞こえない日はなかったほどの人気を得る。また7代目(自称5代目)立川談志[2]を兄貴分として信頼していた(なお、実年齢は圓蔵の方が上である)。
持ち前の頭の回転の速さからなぞかけを得意とし、テレビやラジオなどの放送番組で人気を博す。この時代にラジオ台本を多く手がけていたのが半村良[3]で、交友は半村の晩年まで続いている。
得意のなぞかけから、自宅の表札の裏に「そのココロは?」と書いてあるとも噂された。また頭の回転を活かした頓知も発揮し、大喜利やクイズでも逸早く回答して「早いが取り柄の出前と圓鏡」「早いと言えば、圓鏡か新幹線か」と自称した。
強度の近視のため、黒縁眼鏡を掛けたまま高座に上がっていた。これは従来の寄席演芸のタブーを破るものであり、自身のトレードマークとなった。
兄弟子の初代林家三平が「ヨシコさん」で売ったのに対抗し、妻の節子[4]をネタにした「ウチのセツコが」というフレーズが大いにウケた。
1960年代から1980年代初頭まで、CMキャラクターとしてもお茶の間でお馴染みの存在となり、人気者になった。
1978年に勃発した落語協会分裂騒動では師匠である7代目圓蔵の無節操な言動に翻弄され、その後も落語協会復帰は許されたものの、実質的な圓蔵一門の看板としてその後の後始末などで大変な苦労をすることになった。1980年に師匠が没してわずか2年後の1982年、圓蔵の名跡に付いてしまった悪印象の払拭を期待され、異例の性急さで8代目圓蔵を襲名。この襲名劇に際して、7代目圓蔵が一代限りの約束で名跡を6代目三遊亭圓生から借りていたという事情があったため、当時5代目月の家圓鏡を名乗っていた8代目圓蔵が7代目の没後に6代目圓生未亡人に名跡を一度返上した後、圓生未亡人に対して「私(5代目圓鏡)に圓蔵の名を継がせて下さい」と頼み込み、その了解を得て襲名を行ったという経緯があった[1][5]。
8代目襲名後は次第に寄席に比重を移し、総領弟子の6代目月の家圓鏡以下、多数の弟子を抱える大御所的存在として君臨する。8代目圓蔵一門は本人に因み「ヨイショの一門」と呼ばれる。
晩年は高齢のため全盛期のような口演が困難となり、2012年ころからは高座への出演を控えていた[6]。
2015年10月7日(水曜日)午前3時30分、心室細動により死去[1][7]。81歳没。
没後、江戸川区が平井の圓蔵邸を購入する。その後は江戸川区により記念館『ひらい圓藏亭』として保存し、整備された後に一般公開されている[8]。
- ^ a b c d “〈レクイエム2015〉 5人の「若手四天王」落語家・橘家圓蔵さん”. 毎日新聞. 毎日新聞社. (2015年12月9日) 2017年2月11日閲覧。
- ^ 年齢は1学年下だが、入門は8ヶ月ほど早かった。
- ^ 作家としては、まだ短編を時折発表する程度だった。
- ^ 圓蔵が前座時代、師匠に命じられ、大師匠の8代目桂文楽宅に住み込み内弟子修行に出された際、そこで女中をしていた。2010年6月、82歳で逝去した。
- ^ 『月の家円鏡 八代目円蔵を襲名 師匠のあと継いで「面白さで大成目ざします」』毎日新聞 1982年6月28日東京本社版夕刊9面
- ^ 三遊亭円丈著『落語家の通信簿』(2013年、祥伝社新書) ISBN 978-4396113377
- ^ “橘家圓蔵さん死去 81歳 黒縁眼鏡となぞかけで人気”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2015年10月16日) 2017年2月11日閲覧。
- ^ “橘家円蔵さん自宅を記念館として整備、15日から一般公開”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2017年7月14日) 2017年7月14日閲覧。
- ^ 1975年4月、近畿地区におけるネット局が朝日放送から毎日放送に変更。
- ^ 1975年4月、関東地区におけるネット局がNETテレビからTBSテレビに変更
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