楠本高子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/14 01:56 UTC 版)
くすもと たかこ 楠本 高子 | |
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生誕 |
タダ子 嘉永5年2月7日(1852年2月26日) |
死没 | 1938年(昭和13年)7月18日 (86歳没) |
国籍 | 日本 |
別名 |
三瀬高子 山脇高子 山脇たか |
配偶者 |
三瀬諸淵 山脇泰助(再婚) |
子供 |
男子、後にイネの養子:楠本周三 男子:初、夭折 長女:滝、40歳頃死去 次女:タネ、米山家に嫁す |
親 |
父:石井宗謙 母:楠本イネ |
親戚 |
祖父:フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 叔父:アレクサンダー・フォン・シーボルト 叔父:ハインリヒ・フォン・シーボルト |
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの孫娘で、楠本イネの娘。結婚後の改姓により三瀬高子(みせ たかこ)、山脇高子(やまわき たかこ)、山脇たかとも呼ばれる。
概要
高子が後年書いた手記によると、高子はイネが、師、石井宗謙に強姦されて宿した娘であり(詳細は「楠本イネ」の項参照)、当初は天がただで授けたものであろう、というあきらめの境地から「タダ子」とよばれていた[2]。
幼少期の初恋は檜野家の丹治太という名の藩士である。
1864年、13歳の時まで長崎の祖母・お滝の元で育つ。幼少時は琴や三味線、舞など芸事に熱心であり、医者を嗣ぐことを期待していたイネを嘆かせていたという。
1865年、母の師・二宮敬作の縁により宇和島藩の奥女中として奉公を始める。
そして翌1866年(慶応2年)、三瀬諸淵(三瀬周三)と結婚する。三瀬はシーボルト門下の医者で、二宮敬作の甥に当たった。
1877年(明治10年)に夫・三瀬諸淵に先立たれた後、異母兄・石井信義の元で産婦人科を学んだ。
しかし、その中で医師・片桐重明に船中で強姦され[2]、男児(亡き夫三瀬周三にちなんで、周三と命名。後にイネの養子となり、楠本家を継ぐ)を産む事態となり、親子2代にわたって悲劇に見舞われた。医業の道は断念した。
失意の高子であったが、その後にかねてより高子に求婚していた医師・山脇泰助と再婚した。山脇との間に一男二女を授かるが、結婚7年目に山脇は病死した。
その後は叔父のハインリヒ・フォン・シーボルトの世話を受け、東京で母のイネと共に暮らした。以後は幼少時に熱心だった芸事の教授をして生計を立てていた。
親族
高子には2男2女がいる。最初の夫・三瀬諸淵との間に子はいなかった。
第一子の長男・楠本周三は、東京慈恵医院医学専門学校にて学び、医師となる。
再婚した山脇泰輔との間に、第二子にあたる次男・初(はじめ)(明治14年7月1日午後1時10分、生後8か月で夭折)、長女・滝(既婚、40歳頃死去)、次女・タネ(種、米山家に嫁ぐ、105歳にて永眠)がいる。
長女の滝の死について、楠本高子による『山脇タカ子談』よると「39カ40歳ノ頃死ニマシタ、気ガ狂イマシテ」と記されている。
タネの孫にサンチェス聖子、楠本周三の息子に楠本周篤、楠本周篤の妹の孫に堀内和一朗(医師、ファウストボール選手、メンサ会員)がいる。
伝記小説
固有名詞の分類
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