桂文團治 桂文團治の概要

桂文團治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 00:29 UTC 版)

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初代

初代 かつら 文團治ぶんだんじ
本名 鈴木 清七
生年月日 1842年
没年月日 1886年9月14日
出身地 日本
師匠 初代桂文枝
弟子 2代目桂文之助
2代目桂文團治
初代桂歌團治
初代桂玉團治
3代目桂文團治
桂鯛團治
名跡 1. 初代桂米丸(1871年 - ?)
2. 初代桂文團治(? - 1886年)
活動期間 1871年 - 1886年
活動内容 上方落語
所属 桂派
主な作品
米揚げ笊

初代 桂文團治1842年 - 1886年9月14日)は、本名: 鈴木清七。享年45。あだ名を風貌から「塩鯛」、俳名も同じ。

元は米屋の養子であったともいい、かもじ屋であったとも伝える。素人落語の連中に加わり半面を付けて高座に上がり三味線を弾いて人気を取った。

1871年頃に初代桂文枝の門下で初代桂米丸を経て、1873年から1875年ころに初代市川右團次の懇意から文團治を名乗る。同門の初代桂文三2代目桂文都初代桂文之助らと共に「四天王」として称えられた。

明治10年代、商才にも長けており、貸車屋、茶店などを出し蓄財し平野町御霊神社裏門に自席を営んだ、その実力、人気共にずば抜けていた。新聞落語なども手掛けたようだが、あくまでも正統派で性格は覇気満々で、文三の当初の対抗馬はこの文團治であった。また性格は気性でが荒く、協調性にも欠け、一門との対立も絶えず1879年ころには四天王のほかの3人と対立し一門を脱退、贔屓や侠客が仲裁に入ったりもしたが折れず、一門の弟弟子の桂米團治にも去られ愛想をつかされ孤立するほどであった。

ある時沖仲仕の荒くれ男が寄席で『蜆売り』を聴き情に溢れ泣いてしまう。その後『笑うつもりで寄席に来たのに、オイオイ泣かすとは勘弁ならん』と楽屋に怒鳴り込んできた。文團治は返す刀で『笑うところ、泣くところ有っての芸で御座います。』と挨拶し金5円を包んで渡し、大喜びで帰った男は後に近所では『蜆売りの平吉』で通ったという。

しかし、1886年2代目林家延玉4代目林家正三と同じく、流行のコレラのため若くして死去。道頓堀に新しく一門の寄席を作った矢先であった。

なお、『米揚げ笊』はこの初代の作といわれる。『三枚起請』『妾通い』等の色っぽい落語得意とした。

墓所は師の初代文枝と同じ天王寺圓成院(別名遊行寺)。

弟子

3代目

3代目 かつら 文團治ぶんだんじ
本名 前田 七三郎
別名 「畳屋町」
「大毛虫」
生年月日 1856年
没年月日 1924年4月9日
出身地 日本大阪
師匠 立川三玉齋
2代目桂文枝
3代目林家菊枝
初代桂文團治
2代目桂文團治
弟子 3代目桂米團治
2代目桂梅團治
3代目桂塩鯛
4代目桂文團治
名跡 1. 立川三吉(1839年? - 1879年)
2. 桂文朝(1879年 - )
3. 林家菊松
4. 初代桂米朝( - 1885年)
5. 桂順朝(1885年 - 1886年)
6. 初代桂米朝(1886年 - 1887年)
7. 2代目桂米團治(1887年 - 1908年)
8. 3代目桂文團治(1908年 - 1923年)
活動期間 ? - 1923年
活動内容 上方落語
家族 嵐寛寿郎(義理の孫)
所属 三友派
主な作品
米揚げ笊

3代目 桂 文團治1856年 - 1924年4月9日)は、本名: 前田七三郎。享年69[1]

道頓堀金屋町の公儀銅吹屋・大阪屋儀兵衛の一人息子として生まれるが、明治維新で生家が廃業となり、商家へ丁稚奉公をする。16歳の時からは放蕩を覚える。(尚出生ついては諸説ある。)初代桂文三時代の桂文左衛門の「軒付浄瑠璃」を聞いたことで落語に興味を持つ。

23歳の時、神戸湊席に出ていた立川三玉齋に入門し、三吉を名乗る。三玉齋の死後、1879年ころに2代目桂文枝の門下に移り桂文朝。さらに京都の林家菊枝の門下で菊松。その後、初代文團治の門下に移り初代米朝1885年に順朝、1886年に再度米朝となるが、1887年に極道のため師の勘気を蒙った。その一方生傷の絶えない厳しい稽古が嫌になったとされる。それにより弟弟子の2代目桂文團治に預けられ、2代目米團治を経て、1908年11月に3代目文團治を襲名。

当時住んでいた住所から「畳屋町」と呼ばれ、師匠と共に上方落語界に睨みを利かせていた。大看板として噺振りには艶があり、風格の有る人物であったと伝える。『五人裁き』『立ち切れ線香』、後には『蜆売り』『鴻池の犬』などを十八番とした。

また、寸鉄人を刺す皮肉や小言を良くしたため「大毛虫」と呼ばれ、その弟子の3代目桂米團治も気障なところがそっくりで「小毛虫」と呼ばれた。なお前座のヘタリ時代に林家とみも小言を言われ難儀したとインタビューの取材で語っていた。

小柄で、元々極道者であり、腹部には女の生首、全身には花札の彫り物を散らしていた。座敷ではふんどし姿になってその花札を数えさせ、どうしても一枚足りないところで、客から「ふんどし取れ」と声がかかる、しかしふんどし取らず片足を上げると、足の裏には雨のカス札が彫ってある、という趣向で受けたという。

彫り物は銭湯に行くと客から声が掛かるほどだったという。あまりにも見事だったため洋画家小出楢重がスケッチしたほど。皮膚は某大学の標本室に現在でも保管されているという噂もある。

晩年は喉頭癌となり、最後の高座は1923年5月の南地花月の『泣塩』を演じたのを最後に静養生活に入った。1924年4月の引退興行では声が出ず、涙を誘ったという。師匠の2代目に先立って亡くなった。

没後噺家芝居で使用したかつらなどは借金のかたとして吉本興業に取られ、それを三遊亭志ん蔵が譲り受け、その後は晩年の志ん蔵を世話していた3代目桂米朝が夫人から譲り受けた。

俳優の嵐寛寿郎は、この3代目文團治の義理の孫(妻の前夫が人形浄瑠璃初代桐竹紋十郎で、その孫)に当たる。

弟子


  1. ^ 享年69は、数え年による。生年月日不明のため満年齢不詳。


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