桂文屋とは? わかりやすく解説

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桂文屋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/20 13:44 UTC 版)

かつら 文屋 ぶんや

結三柏は、桂文治一門の定紋である。
本名 かつら 陀羅助 だらすけ
別名 「文哉」(俳名
生年月日 1868年1月
没年月日 1909年3月16日
出身地 日本
師匠 2代目笑福亭松鶴
3代目桂文吾
2代目桂文枝(桂文左衛門)
名跡 1. 桂陀羅助
2. 笑福亭だら助
3. 桂陀羅助
4. 桂金吾
5. 桂文屋
活動期間 ? - 1909年
活動内容 上方落語
新作落語
家族 笑福亭松右衛門(実父)
所属 桂派
三友派
主な作品
いらち俥
阿弥陀池
染色
『宇治の柴舟』
備考
辞世の句は「夢さめて酒まださめず春の月」

桂 文屋(かつら ぶんや、慶応3年12月(1867年12月もしくは1868年1月[注釈 1] - 1909年明治42年)3月16日[1]。、明治時代の上方落語落語家上方噺家)。本名: かつら 陀羅助 だらすけ[1]享年43[1](満41歳没)。俳名は「文哉」。

軽口笑福亭松右衛門の実子[1]。本名の 陀羅助 だらすけは、大峰山名産の苦い胃腸薬「陀羅尼助丸」に由来している[2][1]。妹はお里という[1]。また弟は勘蔵という名で、弟妹の名前について3代目桂米朝は「漢方薬に使われる甘草と砂糖の地口」とし、文屋の本名が苦い薬に由来することから「しゃれた父親」と評している[2]

幼少時から本名(一時笑福亭だら助)[要出典]のままで寄席に出ており、2代目笑福亭松鶴の門下だったという[1]。次に3代目桂文吾の門下で金吾となり、最後に2代目桂文枝の門下で文屋となった[1]

本職の落語の腕前は「下手」と評されながらも、文人の食満南北渡辺霞亭からその人柄を愛された[1]。3代目桂米朝によると、食満南北は一時期文屋の家に仮寓した(道楽が過ぎて家にいられなくなったため)という[3]

音曲では一中節胡弓を手がけたほか、陶芸楽焼)に茶道、絵画に俳句と、多芸多趣味の人であった[1]。陶芸では両方に口のある土瓶を作ったが、引き取り手がなかったとされ、死去から3か月後にそれを記念する碑が大阪市天王寺区壽法寺に建立されている[1]。同寺には文屋の墓もある[3]

死去から約半年後に『大阪朝日新聞』の「珍物画伝」に生前の奇行が紹介された[1]。それによると、家財が仏壇しかなく、襖に破産した銀行の株券を貼りつめ、夜にも照明を付けず、就寝時は水を詰めた一升の徳利を天井からつるしていた(泥棒がぶつかれば水がこぼれて自分の目が覚めるという仕掛け)[1]。生涯独身であった[1]

新作も多く手がけ、『いらち俥』(東京では『反対俥』)『阿弥陀池』(発表当時は『新作和光寺』)『染色』の作者とされる[1]

辞世の句は「夢さめて酒まださめず春の月」[1]

脚注

注釈

  1. ^ 『古今東西落語家事典』は生誕の日付は「未詳」とする[1]。慶応3年12月はグレゴリオ暦では1867年12月26日から1868年1月24日までに該当するため、可能性のある日数としては1868年1月の方が多い。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 古今東西落語家事典 1989, pp. 272–273, 上方篇 三、桂派と三友派(桂文屋の項).
  2. ^ a b 桂米朝 2020, p. 152.
  3. ^ a b 桂米朝 2020, p. 151.

参考文献





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