桂ざこば (初代)
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初代
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本名 | 小倉 幸次郎 |
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生年月日 | 1866年4月25日 |
没年月日 | 1938年9月19日(72歳没) |
出身地 | ![]() |
師匠 | 三遊亭柳生 桂三之助 3代目桂文三 |
弟子 | 桂助六 桂せんば 江戸家猫三 |
名跡 | 柳子 洗湯亭さん助 初代桂三輔 初代桂ざこば |
活動期間 | 1897年 - 1931年 |
活動内容 | 新作落語 |
所属 | 桂派 柳派 互楽派 |
初代 桂 ざこば(かつら ざこば、1866年4月25日[要出典] - 1938年9月19日[1][注釈 1])は、明治から昭和にかけての上方落語の落語家。本名: 小倉 幸次郎(おぐら こうじろう)[1][注釈 2]。芸歴の後半には伝統的なスタイルから大きく逸脱した演出を取り入れた。
来歴・人物
最初は3代目笑福亭松鶴の門人で「光蝶」を名乗るも、まもなく「園馬(または圓馬)」に名を改めて旅回りをした[1][2]。 1897年[要出典]、三遊亭柳生門下で柳吉を名乗る[1]。。次に桂三之助(2代目桂文三門人)門下で「洗湯亭さん助」となり[1]、 広島で幇間同様の暮らしをする[要出典]。 1905年4月[要出典]、3代目桂文三門下で「三輔」を名乗り、桂派に所属した[1][注釈 3]。 しかし、文三が桂派を離脱すると、三輔もともに離脱。上京し柳派に加入。1910年5月、帰阪して互楽派に加入。[要出典]1912年に突然落語を廃業し、大阪を離れて古物商を営むが、結局、事業に失敗して再び帰阪した[1]。だがすでに1917年に弟子の助六が2代目三輔を襲名していたため、1920年 2月[要出典]、初代ざこばを名乗り復帰した[1]。4代目桂文三が亡くなってからは5代目文三を勝手に名乗っていた時期もある[要出典]。吉本興業の寄席に出演したが1931年ごろに引退した[1]。
三輔時代は桂派の中で異色の爆笑派として知られ、噺家の間でも人望ある人物だった[1]。ざこば襲名の後は、新作を手がけ、「ゼネレイト」「インプレッション」「ヴァージン」などの英語を噺に取り入れたり、あるいは立ったまま落語を演じたりと、新しい試みを続けた[1]。寄席にも電気自動車で通う先進的な気風に富んだ人物だったが、往時の人気は取り戻せなかった[1]。『古今東西落語家事典』は「大正時代の観客には新しすぎたらしく」とその理由を推測している[1]。
得意ネタは『宿替え』『大和橋』『三十石』『口入れ屋』など[1]。『大和橋』や新作落語がSPレコードに録音されている[1]。
引退後は近所の妙見堂に毎日詣でる生活だったが、自殺を遂げたとされる[1]。享年72[1]。法名は華辨院超凡日行信士[1]。
墓は谷町9丁目の海宝寺にあるが、『古今東西落語家事典』によると4つの三角柱を結合した墓石で正面に「桂ざこばの墓」、また3人の妻(ハナ・シズ・ナミ)の名が刻まれているという[1]。
2代目ざこばは、襲名に際して初代の墓参りを行っている[3]。
弟子には桂助六、桂せんば、桂三玉[注釈 4]等がいる[1]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 古今東西落語家事典 1989, p. 302, 上方篇 五、吉本派の興隆と漫才の台頭(初代桂ざこばの項).
- ^ 落語系圖 1929, p. 216.
- ^ 3代目桂米朝『米朝よもやま噺』朝日新聞社、2007年、p.141
- ^ 古今東西落語家事典 1989, p. 402, 索引小事典―上方.
参考文献
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- 月亭春松 編『落語系圖』植松秀一郎(自費出版・春松の本名)、1929年、216頁。NDLJP:1194413/121。 - 初代ざこばの写真肖像および経歴が記載されている。
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会 編『古今東西落語家事典』平凡社、1989年4月7日。ISBN 4-582-12612-X。
- 小島貞二『古今東西噺家紳士録 噺家系図付』丸善出版、2000年。(CD-ROMつき)
関連項目
- 桂ざこば (初代)のページへのリンク