松竹ロビンス 球団歌

松竹ロビンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/09 10:04 UTC 版)

球団歌

作詞:佐伯孝夫 作曲:灰田晴彦
大陽ロビンス時代に作られた歌(田村駒の社史に掲載された楽譜では、タイトルは「輝けRobins」となっている[38])。松竹ロビンス時代も歌詞の「大陽」を「松竹」に変えれば歌うことは可能だったとみられるが、いつ頃までどの程度の頻度で歌われたかは不詳。田村駒の社史には「レコードも現存している」と書かれている[38]

戦前の球団歌

作詞:八木好美 作曲:山田耕筰
ライオン軍時代に作成された。

球団旗の変遷

  • 1947~1948:赤地に白文字で「Robins」
  • 1949:赤地に青文字で「Robins」
  • 1950~1951(オールスター前):赤地に青文字で「Robins」。その上に松竹映画の社章。
  • 1951(オールスター後)~1953:白地に赤文字で「Robins」。その上に松竹映画の社章。

ユニフォームの変遷

  • 「大東京軍」時代は筆記体の「D」を左胸に付けたユニフォームを使用。
  • 「ライオン軍」時代は胸に「LION」のロゴが入り、左袖には獅子のイラストが付けられた。
  • 田村駒が繊維商社であったため、同社がオーナーの時代には、物資不足の時代にも他球団より材質のよいユニフォームを使用していた[40]
  • 上記の通り1940年までは「ライオン軍」であったが、敵性語排除がリーグの方針となったため、同年秋の対抗戦では「LION」というロゴを削除してチーム名のないユニフォームを使用した。
  • 「朝日軍」時代は「朝」を胸文字に使用。偏に「赤い丸」を入れたデザインとした。
  • 「パシフィック」時代は「PACIFIC」と入ったロゴを使用。
  • 1950年、松竹となったこの年は、前年来日したサンフランシスコ・シールズのユニホームをモデルにして左胸に「Robins」のロゴが小さく入ったものを使用した。これとは別に通常の胸全面にロビンスのロゴが入ったものも使用している。帽子マークは松竹映画の社章をそのまま使用、左肩には駒鳥のイラストが入る。また当時としては珍しく、パンツの腰部分に小さく背番号が入っていた。
  • 1951年は前年セ・リーグを制覇したことを記念したエンブレムが左肩の駒鳥マーク下に入った。

チーム成績・記録

  • 優勝・1回(1950年)
  • Aクラス・3回(1942年~1943年、1950年)※
  • Bクラス・14回(1937年春~1941年、1944年~1949年、1951年~1952年[注釈 14]
  • 最多勝 98勝(1950年)
  • 最多敗 84敗(1952年)
  • 最多引分 7分(1943年)
  • 最高勝率 .737(1950年)
  • 最低勝率 .192(1936年秋)
  • 通算成績 647勝896敗57分(1600試合)

※1942年はAクラスが本来なら4チームであるが、阪急軍と同率の4位であり、この年のAクラスは5チームである。


注釈

  1. ^ 鈴木の回顧録によると、東京巨人軍が財界、東京セネタースが政界(貴族院)をバックとしたため、國民新聞が「うちは官界をバックにする」という意向で宮田を選んだという。
  2. ^ 『プロ野球ユニフォーム物語』[要ページ番号]によると、これも後年の「太陽ロビンス」同様、太陽レーヨンが由来であるという。
  3. ^ 戦後、西鉄ライオンズが誕生したが、前述の「ライオン軍」との直接の関係はなく、ライオンも経営に関わっていない。ただしライオンは球団歌を贈呈している[7]。ライオンズの興りは該当項参照
  4. ^ サッカー日本代表選手の橋本英郎の祖父。
  5. ^ 太陽レーヨンは戦争中に企業統合により帝国繊維に吸収されており、この時点では存在していなかった[13]
  6. ^ 「関西相撲協会」という団体は詳細不明。春秋園事件大日本相撲協会を脱退した力士が作った大日本関西角力協会があるが、1937年に解散している。ここでは中野晴行の『球団消滅』や永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)の記述に従う。
  7. ^ 松竹との提携が田村に持ち込まれた理由について、小西得郎は「田村が財政面でうわついていた」と記した[1]が、実際には1949年11月から12月にかけての田村駒の売上は好調で復配の目処も立つ状況だった[22]。中野晴行は、提携話は田村に球団売却の意思があると誤解した(毎日新聞のプロ野球参入に反対していた田村が、毎日社会部長の黒崎貞次郎にロビンスのスポンサーになる話を持ちかけて収めようとしたところ、「売却の意思あり」という情報を流されたという[23])鈴木が田村に持ちかけ、松竹をあくまでスポンサーとすることと小西の監督招聘を条件に田村が引き受けたとしている[21]
  8. ^ 近鉄は結果的にパシフィック・リーグ初年度から3年連続最下位となる。
  9. ^ 正式なフランチャイズ制は1952年から開始されるが、ロビンスは登記上は京都府を保護地域とし、同年4月20日までに京都府内で9試合を主管するとしていたが、実際には開催順に倉敷市営球場徳島県営蔵本球場、大阪球場、彦根球場、和歌山県営県営向ノ芝球場の5会場に振り替えられ、それ以後も「登記(名目)上は西京極や衣笠ながら、実際の本拠地は大阪球場」という状態であったとされる。しかし1953年の合併球団・洋松ロビンズになってからは、大阪球場の使用日程の都合上、西京極を準本拠地として18試合、あくる1954年も15試合を主管し、その多くは京都新聞社が主催したとある[15]
  10. ^ 「3割を切った球団は強制的に解散と取り決めをしていた」と書かれることがあるが、そのような事実はなく誤りである。シーズン終了後の新聞にも「リーグの約束に従ってなんらかの罰則を食うことになっている松竹」[33] と記されている。
  11. ^ もしも合併時に大東京から松竹の記録を引き継いでいたら、松竹との共同経営解消時に「(旧)大洋ホエールズ」が消滅球団扱いとなり「(新)大洋ホエールズ」は経営者と名称が同一なだけの別の系譜となるところだった。
  12. ^ ただし実際には大阪球場を本拠登録しており過半数は同球場で主管している
  13. ^ 綱島理友によると、この内容は『日本スポーツ』1947年3月15日号に記載されているという[34]
  14. ^ 1936年春、秋は順位を定めなかったが、勝率では最下位であった。
  15. ^ ここでは自前の球場としての意味。現在用いられている意味で専用球場が定義され、保有が義務付けられたのは、日本プロフェッショナル野球協約が発効する1951年6月以降。
  16. ^ 一時期サンケイアトムズのオーナー企業のひとつだったフジテレビジョンの創業には松竹も関与し、大株主にも名を連ねていたが、その後大半の株式を譲渡し、持株会社のフジ・メディア・ホールディングスに対する少数株主となっている。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 小西得郎 1957, pp. 130–145.
  2. ^ 中野晴行 2000, p. 31.
  3. ^ 日外アソシエーツ 編『出版文化人物事典――江戸から近現代・出版人1600人』日外アソシエーツ、2013年6月25日、81-82,84頁。ISBN 978-4-8169-2417-0 
  4. ^ a b c d プロ野球(戦前編)【ライオンの歴史・ライオンミュージアム】”. ライオン. 2021年1月2日閲覧。
  5. ^ 綱島理友 2005, p. 130.
  6. ^ 中野晴行 2000, pp. 32–37.
  7. ^ プロ野球(戦後編)【ライオンの歴史・ライオンミュージアム】”. ライオン. 2021年1月2日閲覧。
  8. ^ 田村駒株式会社 1984, p. 160.
  9. ^ 中野晴行 2000, p. 25.
  10. ^ 中野晴行 2000, pp. 46–47.
  11. ^ 中野晴行 2000, pp. 61–63.
  12. ^ a b 中野晴行 2000, pp. 51–54.
  13. ^ a b 中野晴行 2000, pp. 93–94.
  14. ^ 中野晴行 2000, p. 106.
  15. ^ a b c メルマガコラム_京都でのプロ野球公式戦開催略史(京都府)
  16. ^ a b c d 若林正博 2016.
  17. ^ a b c d 永井良和 & 橋爪紳也 2003, pp. 47–48.
  18. ^ a b c d 中野晴行 2000, pp. 114–120.
  19. ^ 永井良和 2008, p. 135.
  20. ^ a b 関三穂 1987, pp. 26–46.
  21. ^ a b 中野晴行 2000, pp. 146–147.
  22. ^ 中野晴行 2000, pp. 148–149.
  23. ^ 中野晴行 2000, pp. 134–136.
  24. ^ 中野晴行 2000, pp. 150–153.
  25. ^ 中野晴行 2000, pp. 156–157.
  26. ^ 中野晴行 2000, p. 159.
  27. ^ 中野晴行 2000, p. 168.
  28. ^ 中野晴行 2000, p. 163.
  29. ^ 中野晴行 2000, pp. 175–179.
  30. ^ a b 中野晴行 2000, pp. 200–206.
  31. ^ a b 鈴木龍二 1984, pp. 56–57.
  32. ^ a b c d e f 中野晴行 2000, pp. 208–211.
  33. ^ a b 朝日新聞1952年10月18日
  34. ^ a b 綱島理友 2005, p. 134.
  35. ^ 中野晴行 2000, p. 120.
  36. ^ a b 中野晴行 2000, p. 182.
  37. ^ 大陽ロビンス(綱島プロ野球研究所)
  38. ^ a b 田村駒株式会社 1994, p. 102.
  39. ^ ライオン軍(綱島プロ野球研究所)
  40. ^ 中野晴行 2000, p. 54.
  41. ^ 中野晴行 2000, pp. 78–83.
  42. ^ 中野晴行 2000, pp. 211–213.
  43. ^ 中野晴行 2000, p. 219.






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