旅順攻囲戦
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背景
ロシアは、1896年の露清密約の後、1898年に遼東半島を租借し、旅順口を太平洋艦隊(後の第一太平洋艦隊)の主力艦隊(旅順艦隊)の根拠地とし、港湾を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた(旅順要塞)。
日本は、予期される日露戦争に勝利するためには、日本本土と朝鮮半島および満洲との間の補給路の安全確保が必要であり、朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえるために旅順艦隊の完全無力化が不可欠と見なしていた。また旅順要塞に立て籠もったロシア陸軍勢力(2個師団)は、満洲南部で予想される決戦に挑む日本軍(満洲軍)の背後(および補給にとって重要な大連港)に対する脅威であり、封じ込めもしくは無力化が必要だった。
このため戦前より陸海軍双方で旅順への対応策が検討された。旅順艦隊を完全に無力化する方法として、大別して、旅順要塞の陥落、大口径艦砲(戦艦の主砲[注 1])による撃沈、旅順港永久封鎖が考えられた[注 2]。
海軍側は独力で旅順艦隊を無力化する方針を取り、第一段階:港外奇襲、第二段階:港口封鎖(閉塞)、第三段階:港外からの間接射撃によって港内の艦艇を徐々に損傷させるという作戦計画を立てた。これに基づき1903年の夏には間接射撃のための試験射撃を行った。
陸軍側は参謀本部が満洲攻勢作戦の研究を1902年より始め、その中で、旅順攻城を佐藤鋼次郎少佐が担当した。1903年11月頃の参謀本部内の意見は、兵力の大部分を遼陽方面へ北進させ予想される大決戦に集中させ、旅順は一部の兵力による封鎖監視に留めるべきとの考えが大勢だったが、佐藤少佐が攻略の必要性を主張し研究は続けられた[1]。
1903年12月30日に陸海軍間で開戦に関する協議が行われた。「旅順港外に停泊している旅順艦隊に対する奇襲を優先すべき」との海軍側の主張[注 3]と「臨時韓国派遣隊の派遣を優先すべき」との陸軍側の主張とが対立したが、陸軍が譲って海軍案に決着した。海軍は独力による旅順艦隊への対処を言明していたが[注 4]、陸軍はその後も旅順攻城の研究を進め、1904年1月、陸軍参謀本部による計画案が成り、陸軍省に所要資材の照会がなされた。
開戦後、海軍は港外奇襲と港口閉塞作戦を実行したが、不十分な結果で終わり、旅順艦隊の戦力は保全された。2月末頃からウラジオストク巡洋艦隊が活動を始めたが、第三艦隊を対馬防備に置いたまま、海軍主力による港口の閉塞を目的とした作戦は続けられた。
陸軍は3月に入っても、封鎖監視で十分であるとの考えがまだ残っていたが、最終的には、3月14日、2個師団をもって攻城を行う決定を下した。作戦目的は「地上より旅順要塞を攻略し、北上する日本軍主力の後方を安定化する」とした[注 5]。
海軍は第二回閉塞作戦を3月27日に実行したが不成功だった。しかし4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執しており、4月6日の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文に「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文がある[注 6]。また海軍は12-13日に機雷を敷設した。4月終わり以降は第二艦隊を第三艦隊と入れ替え、旅順方面の海軍戦力は減少した。
ロシアは5月にバルト海に所在する艦船群(未完成艦含む・バルチック艦隊)の極東派遣を決定・発表した。もしもこれが未だ健在の旅順艦隊と合流すれば、日本海軍の倍近い戦力となり、朝鮮半島周辺域の制海権はロシア側に奪われ、満洲での戦争継続は絶望的になると考えられた。5月3日に第三回閉塞作戦が実施されたが、これも不成功に終わった。5月9日より、日本海軍は、旅順港口近くに戦艦を含む艦艇を遊弋させる直接封鎖策に転換したが、主力艦が貼り付かざるを得なくなり増派艦隊への対応が難しくなった。15日には当時日本海軍が保有する戦艦の6隻のうち2隻を触雷により失った[注 7]。日本軍としては増派艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要に迫られ、海軍はこの頃陸軍の旅順参戦の必要性を認めざるを得なくなった。
このような経緯に加え攻城の準備は複雑なため、第3軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した乃木希典大将が、参謀長には砲術の専門家である伊地知幸介少将が任命された。軍参謀らには、開戦後に海外赴任先から帰国してきた者が加わった[注 8]。軍司令部は6月1日に本土を発ち、8日に大連に到着した。第3軍の主力としては、すでに金州城攻略戦を終えて主戦場と目される満洲南部へ北進する第2軍から2個師団(第1師団、第11師団)が抽出され当てられた。
6月20日に満洲軍(総司令部)が設置され、第3軍もその下に入った。第3軍の使命は、速やかに要塞を陥落させ、兵力を保全したままその後に第1・2軍に合流することだった。
注釈
- ^ もしくは徹甲性が優れた大口径要塞砲
- ^ 戦後判明したが、旅順艦隊は黄海海戦によりほぼ無力化されていた。
- ^ 海軍側は第一段階(奇襲)の機密保持を重視して、30日に初めてこの構想を陸軍に知らせた。
- ^ 事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたと伝えられる。
- ^ 小説や映画、ドラマの影響で第三軍の作戦目的を「旅順艦隊の無力化」と考える人が多いが、それは海軍が単独での旅順艦隊無力化に失敗して陸軍に協力を要請してきた6月以降についた付帯目的であり、第三軍の作戦目的は終始旅順要塞の攻略であった。これは旅順要塞を落とせば、そこに籠もる旅順艦隊も降伏か脱出か自沈かを選ぶしかなく、海軍の要望に応える事ができるが、旅順艦隊壊滅を優先しても、要塞自体は残って抵抗を続ける(第三軍を旅順に釘付けにするだけでクロパトキンのロシア軍の援護になるし、第三軍が北上すればこれを追撃したり、日本軍の後方拠点の大連を攻撃したりできる)ので陸軍自体の目的を達成できないからである。
- ^ (長南 2011b, p. 132)より。他にも同ページには期日が不明ながら軍令部参謀山下源太郎の「(陸軍の)上陸直後、海軍は旅順の陸上攻撃を要求せざるべし」との発言があったといい、なるべく陸軍の援助なく独力にて旅順を陥れんとする野心があった。
- ^ 触雷沈没したのは戦艦「初瀬」「八島」。海軍は戦死者のいなかった「八島」の沈没を秘匿し、「初瀬」1隻の沈没として発表した。
- ^ 当時の先端知識を学んでいた人材、特にドイツで要塞戦を学んでいた井上幾太郎が参謀として加わったことは、旅順難戦の打開に大きく貢献した。
- ^ 海軍陸戦重砲隊中隊長だった永野修身は、海軍ではそれほどなじみのなかった観測を用いる間接射撃の実現に貢献した。
- ^ 戦艦の副砲なので、戦艦へ命中しても与える被害は軽微だった。
- ^ 一部損傷艦船はドイツの租借地であった山東半島に逃げ込んだが、同盟国であったドイツはこれら艦船の武装解除を行った
- ^ 8月に、戦艦・巡洋艦などの大型艦1艦ごとに1個中隊を編成し、要塞の地区ごとの陸軍部隊の指揮下に派遣した。陸上戦闘での消耗は激しく、その後も増援が繰り返され、人員の面でも艦船の行動能力は次第に損なわれていった。
- ^ 撤去決定は明治37年8月5日。当初は鎮海湾と対馬へ移設することを予定していた (原 2002, p. 530)。
- ^ 陥落後に行われた着底ロシア艦艇への命中弾のの効果を調べる調査を陸軍省軍務局砲兵課石光真臣らが実施。命中した28センチ榴弾砲の砲弾は経年劣化により装填火薬や信管に不良があり不発が多かった。また鋳鉄製砲弾は鋼鉄艦砲撃には強度不足で、艦底まで突き抜けているものは皆無で、調査報告を受けて陸軍省技術審査部長有坂成章は砲弾の全面変更を指示している。また海軍側の調査でも多くの艦はキングストン弁を開いており、自沈処理がなされていたと報告されている
- ^ 要塞には降伏時、兵員1万6千人、砲弾8万発、銃弾200万発が残っていたとされる。スミノルフ中将、ゴルバトフスキー少将ら首脳陣の多くは徹底抗戦を主張したが、ステッセリはほぼ独断で降服を決定した。そのため、戦後厳しく糾弾され(大江志乃夫「世界史としての日露戦争」ほか)軍法会議で死刑を宣告された。
- ^ 11月14日、御前会議において203高地奪取の御裁可を得た旨を満洲軍に対し伝達。11月19日乃木宛親書で203高地占領を要請。11月22日勅語を乃木に対し伝達。
- ^ 大正14年陸軍大学校調整、全十二巻二十一章におよぶ大著である。 表題には「日露戦史講義摘要録」と書かれている。
- ^ 文芸春秋2010年12月臨時増刊号にて軍事史研究家別所芳幸が紹介した。
- ^ 現場では第1回総攻撃後、自傷兵(自らを傷つけて戦線を退こうとする兵)が多発し、第2回総攻撃前の9月25日付けで自傷兵を後方へ送還することを一事見合わせるよう通達が出ている。(鶴田禎次郎『日露戦役従軍日誌』)
- ^ 大本営は「先ず旅順を攻略し、雨期前には鳳凰城の線に進出する」というようなことを述べており、旅順要塞の防御力を実際より軽視しており、攻城準備を省略して、西方から奇襲して陥落させるという方針であった。一方で乃木は大本営参謀に対し「攻城計画の順序を省略し、奇策を用い又は力攻を勉むる如きは全局の利害に鑑み、責任を以て決行するを得ず」と述べ、攻城準備を行った上で第1回総攻撃を行ったが、おびただしい死傷者を出す結果となった。(沼田 2004、谷 2004)
- ^ 奈良武次少佐(当時は攻城砲兵司令部所属)の回想(歴史群像 2011, p. 70)。
- ^ 「長岡外史関係文書 回顧録編(長岡外史文書研究会)」によれば、大正12〜15年頃に執筆作業をしたと推定されている
- ^ 「長岡外史関係文書 回顧録編(長岡外史文書研究会)」より。『機密日露戦史[112]』もこの長岡談話を基に記述されている。
出典
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固有名詞の分類
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