新島民治とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 新島民治の意味・解説 

新島民治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/02 03:25 UTC 版)

 
新島 民治
新島民治(左)と妻・とみ
時代 江戸時代末期-明治時代初期
生誕 文化4年2月14日1807年3月22日
死没 明治20年(1887年1月30日
別名 幼名:金吉
通称:弁喜、民治
:敬徳、公勤
:崋山
墓所 南稈寺
主君 板倉勝尚板倉勝明板倉勝殷
安中藩
氏族 新島氏
父母 父:新島弁治
とみ(中田氏)
実子:七五三太、双六
テンプレートを表示

新島 民治(にいじま たみじ、1807年3月22日文化4年2月14日〉 - 1887年明治20年〉1月30日)は、日本武士安中藩士)。新島襄の実父。字は敬徳、のちに公勤で、通称は金吉、弁喜、民治。号は崋山である。

文化4年(1807年)に上野国吾妻郡郷原村(現群馬県吾妻郡東吾妻町)に生まれた。

文政元年(1818年)、父・新島弁治が江戸藩邸に詰めることになったのに従い江戸に移る。天保2年(1831年)4月に浦和宿出身の中田とみと結婚する。天保14年(1843年)に長男・七五三太(後の新島襄)が生まれる。その頃、民治は江戸祐筆見習いであった。嘉永6年(1853年)には中小姓格、文久元年(1861年)には中小姓になる。明治維新後の明治2年(1869年)4月に安中に移った。

明治3年(1870年)8月10日に父・弁治が死去すると家督を継いだが、11月には隠居し、次男の双六に家督を譲った。

明治10年(1877年)4月に襄が住んでいた京都新烏丸頭町に身を寄せた。同年3月4日に洗礼を受けて西京第二公会に入会した。

明治20年(1887年)に死去した。

参考文献

  • 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年

関連作品

テレビドラマ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「新島民治」の関連用語

新島民治のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



新島民治のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの新島民治 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS