怡土城 出土品

怡土城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 03:26 UTC 版)

出土品

城域内からの出土品としては、多量の瓦がある[6]。その大半は平瓦である一方、丸瓦・軒丸瓦の出土は認められていない[6]。平瓦の完形品は長径約41センチメートル・短径約31センチメートル・厚さ約5センチメートルを測る厚瓦で、重さは約10キログラムにおよぶ[6]

瓦を焼いた瓦窯の所在地は明らかでない。候補地として、南東方の末永地区で鬼瓦の出土が認められているほか、福岡市元岡地区(元岡・桑原遺跡群)の瓦窯跡で同じ瓦の出土が認められている[6]。怡土城の規模は大きく、築城時期も12年におよぶことから、この2ヶ所のほかにも複数の瓦窯が存在したと推測される[6]

文化財

国の史跡

  • 怡土城跡
    1938年(昭和13年)8月8日、国の史跡に指定[4]
    1944年(昭和19年)6月5日・2007年(平成19年)3月23日・2023年(令和5年)3月20日、史跡範囲の追加指定[4][16]

関連文化財

  • 末永出土鬼瓦 - 糸島市指定有形文化財(考古資料)。奈良時代の鬼瓦で、怡土城との関連可能性が指摘される。2008年(平成20年)3月19日指定[17]

考証

年表
年月
(旧暦)
出来事
735年 2月 新羅使が国号改称を事後告知
日羅関係悪化(王城国改称問題)
753年 1月 唐の朝賀で日本・新羅使者の席次争い
8月 遣新羅大使小野田守が引見出来ず帰国
754年 4月 吉備真備の大宰大弐任命
小野田守の大宰少弐再任
755年 11月 安禄山の乱の勃発
756年 6月 吉備真備の専当官任命
怡土城築城開始
758年 12月 遣渤海使小野田守の帰国
(安禄山の乱について報告)
大宰府に厳重警戒の命
759年 6月 新羅征討計画の準備開始
762年 渤海が唐より渤海郡王から渤海国王に新封
(新羅征討計画の条件喪失か[5][6]
764年 1月 吉備真備の造東大寺長官任命
9月 藤原仲麻呂の乱
765年 3月 佐伯今毛人の築怡土城専知官任命
768年 2月 怡土城完成

怡土城の築城目的について文献上では明確でないが、今日では安禄山の乱(安史の乱)に対する備えとする説、対新羅政策の一環とする説の2説が有力視される[1][5][6]。それぞれの詳細は次の通り。

安禄山の乱に対する備えとする説では、755年11月に乱が勃発したのち、その余波で安禄山が日本に兵を向ける可能性に備えた築城と推測される[5][6]。特に、この乱の発生が天平宝字2年(758年)12月に遣渤海使小野田守によって報告された際、大宰府に対して来寇に備えるよう厳命された点が注目される[5][6]。しかし、小野田守の報告は怡土城築城開始の2年後である点、乱の勃発から築城開始までに遣唐使の帰国および渤海使来朝は見られない点(小野田守の報告が初報と見られる点)で、否定的な意見も強い[5][6]

対新羅政策の一環とする説では、当時は日本・新羅の関係(日羅関係)が悪化しており、それを踏まえた築城と推測される[18]。特に、天平勝宝5年(753年)に唐の朝賀で日本使者と新羅使者が席次争いを起こしているが、この時に吉備真備が遣唐副使であった点が注目される[5][6]。また、築城開始後の天平宝字3年(759年)からは藤原仲麻呂政権下で新羅征討計画が準備されており、この計画との関連性を指摘する説(征討の前進基地とする説)もある[15][5][6]。この新羅征討計画自体は天平宝字6年(762年)を目標に準備が進められていたが、実行されることはなかった[5][6][18]。ただし、このような対新羅政策の一環とする説についても裏付け資料が見つかっていないため、必ずしも詳らかでない[5][6]

なお、吉備真備・佐伯今毛人がいずれも肥前守を経験している点、怡土城跡には肥前方向の意識も見られる点から、朝廷への帰属意識の低い肥前地方の威圧も怡土城築城の軍事的目的の内に入っていたとする説もある[5][6]

現地情報

所在地

交通アクセス

  • 九州旅客鉄道(JR九州)筑肥線 周船寺駅から
    • 高来寺側登り口まで
      • バス:コミュニティバス(川原線)で「高来寺」バス停下車
    • 高祖神社側登り口(怡土城址碑)まで
      • バス:コミュニティバス(川原線)で「高祖」バス停下車

関連施設

周辺


注釈

  1. ^ 古代山城・式内社の重複として、周防国石城山城石城神社(式内小社)、讃岐国城山城城山神社(式内名神大社)、筑後国高良山城高良大社(式内名神大社)の例が知られる(津森明 「城山神社」『日本の神々 -神社と聖地- 2 山陽・四国』 白水社、1984年)。

原典

  1. ^ 『続日本紀』天平勝宝8歳(756年)6月甲辰(22日)条。
  2. ^ 『続日本紀』天平宝字3年(759年)3月庚寅(24日)条。
  3. ^ 『続日本紀』天平宝字8年(764年)正月己未(21日)条。
  4. ^ 『続日本紀』天平神護元年(764年)3月辛丑(10日)条。
  5. ^ 『続日本紀』神護景雲2年(768年)2月癸卯(28日)条。
  6. ^ 『日本三代実録』元慶元年(877年)9月25日条。

出典

  1. ^ a b c d e 怡土城跡(平凡社) 2004.
  2. ^ a b c 国指定史跡怡土城跡 2006, pp. 1–3.
  3. ^ a b 怡土城跡(糸島市ホームページ)。
  4. ^ a b c d e f g 怡土城跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 国指定史跡怡土城跡 2006, pp. 6–12.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 新修志摩町史 上巻 2009, pp. 259–265.
  7. ^ a b c 国指定史跡怡土城跡 2006, pp. 4–5.
  8. ^ 新修志摩町史 上巻 2009, pp. 225–231.
  9. ^ 新修志摩町史 上巻 2009, pp. 231–234.
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay 国指定史跡怡土城跡 2006, pp. 88–101.
  11. ^ 「高祖神社」『日本歴史地名大系 41 福岡県の地名』 平凡社、2004年。
  12. ^ 『金武青木 -金武西地区基盤整備促進事業関係調査報告-(福岡市埋蔵文化財調査報告書 第1146集)』 福岡市教育委員会、2012年、pp. 83-86。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
  13. ^ 「高祖城跡」『日本歴史地名大系 41 福岡県の地名』 平凡社、2004年。
  14. ^ 怡土城も危機 土塁がくずれる『朝日新聞』1970年(昭和45年)6月27日朝刊 12版 22面
  15. ^ a b 怡土城(日本大百科全書).
  16. ^ 令和5年3月20日文部科学省告示第18号。
  17. ^ 有形文化財一覧(糸島市ホームページ、2016年5月12日更新版)。
  18. ^ a b 向井一雄 2017, pp. 185–188.


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