山縣有朋 生涯

山縣有朋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/29 13:47 UTC 版)

生涯

幕末

天保9年閏4月22日1838年6月14日)、萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩中間・山縣有稔(中村喜左衛門の子)の長男として生まれる。足軽以下の中間身分ながら、将来は槍術で身を立てようとして少年時代から槍の稽古に励んでいた。また父から勉強を教えられ、藩に出仕して下級役人として勤めながら文武に励んだ。しかし幼少期から青年期に両親を相次いで失い、親代わりに育ててくれた祖母も元治2年(1865年)3月に謎の入水自殺を遂げ、家族に先立たれ寂しい青春を過ごしたことが山県の性格に大きな影響を与え、真面目だが猜疑心が強く、簡単に人を信用しない人物に成長していった[2]。このころ、友人の杉山松助らに松下村塾への入塾を勧められるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれる[3]

安政5年(1858年)7月、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した6人のうちの1人として、松下村塾から選ばれた杉山と伊藤俊輔(のちの伊藤博文)らとともに上京し、尊王攘夷派の大物であった久坂玄瑞梁川星巌梅田雲浜らに感化され、10月の帰藩後に久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾したとされる。松陰門下となったことは出自の低い山県や伊藤らが世に出る一助となったと考えられる。山県が入塾したとされる時期から数か月後、松陰は獄に下り刑死することになったため、山県の在塾期間はきわめて短かったと考えられる[4]。しかし彼は松陰から大きな影響を受けたと終世語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けた[注 2]

文久3年(1863年)2月に再度京都へ向かい、滞在中に高杉晋作と出会い親しくなる。高杉の6月の奇兵隊創設とともにこれに参加し、武芸や兵法の素養を活かして頭角を現す。高杉は身分にとらわれずに有能な人材を登用したため、低い身分であった伊藤や山県などが世に出るきっかけを与えた。松下村塾と奇兵隊の存在により、幕末の長州藩からは伊藤や山県のように、足軽以下の平民と大差ない身分の志士が多く出ている[注 3]。12月、高杉が教法寺事件の責を負い総督の任を解かれた際には、3代目総管・赤禰武人とともに副官に当たる奇兵隊軍監に就任し、しばしば病気で身を持ち崩しながらも兵隊訓練と壇ノ浦警備に励んだ[6]

長州防衛戦

元治元年(1864年)、長州藩の運命が大きく動く事態が4つも起こった。1つ目と2つ目は7月の禁門の変とそれに先立つ6月の池田屋事件が京都で発生、杉山が池田屋で、久坂と入江九一ら同門の友人たちが禁門の変で次々と犠牲になった。3つ目は8月の下関戦争で、山県は壇ノ浦砲台で外国艦隊相手に応戦したが、装備で大きく差がついた外国勢に敵わず敗北している。4つ目は江戸幕府が禁門の変の報復として発令した第一次長州征討で、このときは家老らの切腹で戦争は回避されたが、高杉は幕府に恭順した椋梨藤太ら俗論派に反発し12月に挙兵した(功山寺挙兵)。赤禰や山県は当初高杉が無謀な反乱に踏み切ることに危うさを感じ支持しなかったが、翌元治2年(慶応元年、1865年)1月に赤禰が出奔したあとは山県が事実上奇兵隊を掌握、高杉支持に転向し俗論派を野戦で撃破、長州正義派の勝利に導いた[7][8]

慶応2年(1866年)の第二次長州征討では、軍監のまま名目上は奇兵隊4代目総管である山内梅三郎の下についていたが、高杉とともに実権を握り北九州の小倉藩を占領する活躍を見せ、7月27日赤坂・鳥越の戦いなど小倉藩兵の抵抗に苦しめられたが、戦局は長州藩有利のまま12月に和睦を迎えた。以後は木戸孝允の配下になり、慶応3年(1867年)4月に亡くなった高杉の葬儀を済ませると、木戸に上洛を申し出て5月に3度京都へ赴き、薩摩藩西郷隆盛大久保利通黒田清隆らと交流を結んだ。国父島津久光や家老小松清廉とも面会し、天下の行く末や倒幕のための挙兵・連携計画を打ち合わせ6月に帰藩した[9][10][11]

充実した京都とは対照的に、長州藩に戻ってからは面白くない出来事が続き、山県の体調にも悪影響を与えた。合流を約束した薩摩勢がなかなか来ない焦りから病気になり、一時軍監を免じられている。11月にようやく薩摩勢が長州勢と合流したあと京都へ向かったが、山県は人選から外れて同門の山田顕義が上洛勢に加わり、翌慶応4年(明治元年・1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで長州勢の指揮を執る、山県は奇兵隊を率いたまま長州に残るなど憤懣やるかたない日々を過ごした。なお、上洛前の4月に庄屋の娘・友子と結婚、帰藩した7月に式を挙げている[12]

戊辰戦争

鳥羽・伏見の戦い後に奇兵隊にも出陣の命令が下り、山県は参謀福田侠平を従えて3月に出発し、大坂、次いで江戸へ下向、再会した西郷と意気投合し江戸に滞在し、閏4月に大坂へ戻り木戸と話し合い、両者からの信頼を獲得した。また北陸地方越後方面への出陣を命じられたことで山県は戊辰戦争に加わることになった(ただし、福田は木戸と西国へ行き離脱)[13]

戊辰戦争(北越戦争会津戦争)では黒田とともに北陸道鎮撫総督・会津征討総督高倉永祜の参謀となり、奇兵隊を含む諸藩兵を指揮する立場に昇格した。閏4月19日高田で軍を集結させると二手に分け北上、山県と黒田は海沿いに進む軍監三好重臣が指揮する本隊と同行、もう1人の軍監岩村高俊率いる別動隊は内陸部へ進軍した。本隊は27日鯨波戦争桑名藩兵に勝利し、翌28日柏崎を占領した。別動隊も小千谷を占領し、順調に戦線を進めたかに見えた[14]

しかし、越後口では長岡藩家老河井継之助と友軍の桑名藩士立見尚文の前に苦戦を強いられ、5月13日朝日山の戦いで奇兵隊を率いた友人の時山直八を立見率いる雷神隊に討ち取られ、山県は衝撃のあまり涙を流したと伝えられる[注 4]。膠着状態だった戦線は19日に本隊の三好による長岡城陥落で新政府側が有利になったが、7月25日に河井が長岡城を奇襲で奪還(八丁沖の戦い)、山県はなすすべもなく西園寺公望総督(病気で辞職した高倉の後任)ともども城外へ逃げ出す羽目になった[17][18]

それでも城外で体勢を立て直し、奇襲の際に河井が重傷を負い敵の勢いが衰え、山田と黒田が別動隊として海軍に乗り込み日本海を北上、長岡城陥落と同日に北の太夫浜へ上陸、新潟港を落とし新発田藩を寝返らせたこともあり、4日後の29日に長岡城を再度落とし、越後諸藩も降伏させ8月中に何とか越後を平定した(河井は傷が原因で死去)。それから東へ進軍して9月18日から会津城籠城戦で包囲軍に加わり、4日後の22日会津藩降伏に立ち会ったあと江戸へ下向、長州へ戻った。越後平定という戦果は挙げられたが、薩摩兵と長州兵の連携がうまくいかず、黒田とも対立し一時参謀を辞職、復職したが薩長兵の仲が悪いまま別々に行軍するなど問題続きだった。この問題は西郷が現地に赴き、慰められた山県が薩長に気配りしたことで解決している[19][20]

明治2年(1869年)、維新の功によって賞典禄600石を賜っている[21]

明治維新後

明治2年3月、木戸や西郷に願い出ていた海外留学の許可が下り、6月28日に西郷の弟・西郷従道とともに渡欧し、各国の軍事制度を視察する。翌明治3年(1870年)にアメリカ経由で8月2日横浜港に到着、帰国直後の8月28日兵部少輔に任命された。しかし兵部卿有栖川宮熾仁親王は名目上のトップで、実際は岩倉具視ら文官への業務報告が行われる仕組みであった。内部の軍隊も長州・薩摩に分かれ、それぞれ木戸と大久保利通が実権を握っていた。兵部省がシビリアン・コントロールで弱体化する中で人事異動が行われ、山県の友人の兵部大輔・前原一誠は山県の就任前後に辞任、山田は山県の下である兵部大丞だがそりが合わないため、山県はさまざまな不安を抱えながら、兵部省の実質的なトップとして木戸の意向に沿いながら軍制改革を進めていった[22]

各藩に分かれている軍事力を中央にまとめるため、薩摩に戻っていた西郷を政府へ呼び出す必要があると考えた木戸・大久保は11月に東京を出発、岩倉も合流して12月に薩摩に入り、西郷を説得して翌明治4年(1871年)2月に一行は上京した。山県は一行に加わり西郷説得にも一役買い、薩摩・長州・土佐藩の兵力を集結させた御親兵編成と鎮台設置につながった。また、友人で入江九一の弟・野村靖、部下の鳥尾小弥太らと相談し兵制統一の必要性から廃藩置県の必要性を提議、有力者間の根回しを行った。前後して同年6月に熾仁親王が兵部卿を解任され山県は留任、7月14日の廃藩置県実施と同時に兵部大輔に昇進した[23][24]

しかしながら、山田との関係は芳しくなく、木戸ら文官が山県の頭越しに兵部省を動かす状態が続くなか、改革途中で暗殺された大村益次郎の実質的な後継者として西郷の協力を得ることで軍制改革を断行、11月に山田も参加した岩倉使節団の外遊により留守政府の下で徴兵制を取り入れ、明治6年(1873年)1月の6鎮台設置と同時に開始された(徴兵令)。前年の明治5年(1872年)2月に肥大化した兵部省を廃止し陸軍省海軍省を置き陸軍大輔になり、3月に御親兵が改編された近衛都督も兼任、陸軍中将にも任じられ軍の中心人物になった[25][26]

しかし明治5年、陸軍出入りの政商山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げつかせる。いわゆる山城屋事件である。山城屋の自殺と証拠隠滅工作により山県に司法の追及は及ばなかったが、近衛局から山県に反抗的な薩摩系将校たちが辞職を迫り、西郷の慰留はあったが責任を取る形で7月に近衛都督を辞任、明治6年4月に陸軍大輔も辞任し、陸軍中将の階級だけが残った。しかし山県に代わりうる人材がなく、6月に陸軍卿で復職し参謀本部の設置、軍人勅諭の制定に携わった[27][28]

9月に使節団が帰国、征韓論と10月の明治六年政変には各鎮台巡視中のため不在だったが、西郷と木戸の間で板挟みになり煮え切らない態度を取ったため木戸の怒りを買い、政変後は卿の1人にもかかわらず木戸の反対で参議になれなかった(ほかの卿は参議兼任)。病気がちの木戸に代わり台頭した伊藤と大久保の支持で辛うじて現状維持できたが、文官の軍統制、陸軍の内部対立(山田は木戸の介入で軍から遠ざけられるが、彼の支持層が山県との対立を継続)など従来の問題を解決できないまま、明治7年(1874年)2月に陸軍卿を辞任、代わりに近衛都督に復帰し参謀局長も兼ね、6月に陸軍卿も再任された。8月に大久保と伊藤の引き立てでようやく参議も兼任したが、立場不安定なため佐賀の乱台湾出兵に関与できなかった。ただ、参議兼任後は大久保らと江華島事件の対応にあたり、木戸との関係を修復して軍の立場も回復している[29]

西南戦争

明治10年(1877年)2月に勃発した西南戦争では参軍として官軍の事実上の総指揮を執ったため(名目上の指揮官は征討総督の熾仁親王、ほかの参軍は黒田と川村純義が任命された)、さながら薩摩閥と長州閥の直接対決の様相を呈した。錬度や士気で優る薩軍に対し、装備と物量・兵力で対抗して鎮圧した。また、電信を活用し分散した軍との連絡を取り合い、政府も海軍を使い薩軍の後方の鹿児島を襲撃させ制海権を掌握した。薩軍挙兵前の1月に、鹿児島が不穏なため熊本鎮台司令長官谷干城に厳戒態勢を命じ、ほかの鎮台から兵隊を動員した時点で薩軍が挙兵、海路博多港に上陸し薩軍に包囲されている熊本城の北から救援のため南下した。熊本城を攻めあぐねた薩軍も一部を残して北上、両軍は田原坂など周辺で激突した[30][31][32]

3月4日から政府軍は田原坂を攻撃したが、薩軍の果敢な襲撃と堅固な陣地の前では突破できず犠牲が増え、抜刀隊の投入などを経てようやく20日に田原坂を突破したが、東の植木から先は薩軍の抵抗で進めないままだった。こうしたなかで高島鞆之助が進言した別働隊編成案を承諾、黒田を指揮官として山田と川路利良が率いる別働第二旅団が熊本の南の八代に上陸、薩軍の抵抗を排除しながら北上、4月14日に熊本城へ入り包囲から解放した。それにより植木の薩軍は撤退、山県の本隊も16日に入城を果たした。陸軍の山県が敵と対峙している間に海路から黒田と山田が敵の背後を占領・牽制するという、奇しくも戊辰戦争と同じ状況が再現されたが、黒田は熊本城解放後に辞任、山田は山県の下に属し従軍を続けた[33][34][35]

撤退する薩軍を追い政府軍は熊本城から東進、山県は雌雄を決すべく熊本平野の南北に防衛線を張った薩軍と20日に激戦を繰り広げた(城東会戦)。関ヶ原の戦い以来の大会戦といわれ、双方が死力を尽くした城東会戦は北は大津から、南は御船まで政府軍と薩軍が拠点を奪い合う死闘となったが、山田の別働第二旅団が御船を落としたことが転機となり、ほかの戦線も次々と崩れ薩軍は撤退、1日で政府軍の勝利に終わった。以後、山県は軍の指揮を執り、南の人吉から南東の都城、そこから北東の宮崎、北の延岡まで逃げる薩軍を追跡しながら鹿児島の分隊に援軍を送り、鹿児島を包囲していた薩軍の一部隊を蹴散らし、ほかの戦線にも部隊を送り薩軍を追い詰めていった。やがて8月14日に延岡を陥落させ、翌15日に北の長井村から延岡奪回を図った薩軍との戦闘にも勝利したが、17日夜から18日未明にかけ薩軍が脱出、長井村に包囲網を敷きながら薩軍に西の可愛岳を突破され逃げられる失態を犯し、部下に送った手紙で反省の気持ちを書いている[36][37][38]

態勢を立て直し薩軍追跡を続行、南下して薩軍に奪われた鹿児島へ進軍し、9月24日の最後の城山の戦いでは、1度逃げられた反省から幾重にも包囲網を張り巡らし、各旅団と打ち合わせを重ね慎重かつ詳細に包囲網の部署や攻撃地点などを定めた。また別の戦争終結も試み、直前の23日に西郷へ自決を勧める書状を送った[注 5]。内容は、大義名分のない挙兵は西郷の意志ではなく周りの暴走ではないかと西郷の心情を慮ったうえで、これ以上犠牲者を出さないため西郷に自決を勧めたが、西郷が返事をしなかったため決戦となった[40][41][42]

政府軍は城山へ総攻撃をかけ、西郷が自決し戦争は終結した。西郷の遺体を検分した山県は、任務を全うしたことを喜びつつも西郷の死に涙を流し悼んだとのちに回想している。戦後は恩賞として勲一等旭日大綬章と勲章・年金を与えられ、別荘・椿山荘を購入し作庭に取りかかった[43][44][45]

陸軍の権力闘争から派閥結成まで

翌明治11年(1878年8月23日、西南戦争の恩賞が与えられなかった怒りで近衛歩兵大隊の暴動(竹橋事件)が発生した。ただちに鎮圧されたが、戦争で財政が枯渇し軍の経費を節減したため、兵士の待遇を悪くしたり恩賞を下級兵士に与えなかったりしたことが原因で、かつ山県が恩賞配分の責任者だったためその地位が危ぶまれた。政府首班の伊藤や井上馨・岩倉具視・三条実美らの配慮でどうにか名誉は保たれたが、12月に陸軍卿を辞任、代わりに陸軍省の参謀局を廃止して新しく参謀本部を創設、陸軍省から独立した参謀本部の初代本部長として軍に留まり、次長の大山巌と腹心の桂太郎らとともに参謀本部の拡充に努めた[46]

このころから軍人の秩序を乱す行為や政治関与、特に自由民権運動の軍への浸透を恐れ、10月12日西周に起草させた『軍人訓誡』(軍人勅諭の原型)を陸軍へ配布し軍紀の引き締めを図った。しかし、皮肉にも参謀局長だった部下の鳥尾小弥太は参謀局廃止で非職になったあと、山県と対立するようになるが、彼と協力して山県と敵対した3人の有力軍人(谷干城・曾我祐準三浦梧楼)は四将軍派と呼ばれ、現役軍人でありながら政治介入して山県・大山らと紛争を巻き起こしていくことになった。また参謀本部を充実させる一方で、桂をへ派遣し軍事調査を行い、軍編成を鎮台から師団変更の検討など軍の整備も進め、明治15年(1882年)1月に軍人の政治関与禁止を改めて記した軍人勅諭を制定している[47][48][49]

同年3月、伊藤が憲法調査のため外国へ旅立ち、自分のポストである参事院議長を辞任すると、山県が参謀本部長を辞任して後任の参事院議長に就任、翌明治16年(1883年)8月に伊藤が帰国するまで在任した。参事院議長も辞めたあとは内務卿に転任、明治17年(1884年)の華族令制定で伯爵を授与、翌明治18年(1885年)の内閣制度創設で内務卿の名称が変わると、第1次伊藤内閣内務大臣として内務省を拠点に地方自治を担当するかたわら、陸軍大臣(陸軍卿から改名)になった大山とともに引き続き軍拡に邁進した[50]

一方、四将軍派とは軍拡と朝鮮外交をめぐって対立、桂と川上操六が山県と大山の支持で軍拡を推し進めることに反対した三浦が山県ら薩長藩閥を批判し、四将軍派と結びついた月曜会も藩閥批判に回ることで軍は内紛に陥るおそれがあった。桂と川上が提案した軍拡案に伊藤ら政府は難色を示し、三浦は小規模な軍隊だけ日本に置き防衛を重視、兵役を3年から1年に短縮する軍縮案を主張、財政難で軍事費に懸念を示し、軍拡にともなう積極的な外征で朝鮮の後ろ盾である清との戦争を起こしたくない伊藤と井上の関心を得たことで、軍の主導権は四将軍派に移るかに見えた。四将軍派支持の明治天皇がしばしば軍の人事に口出しして彼らの起用を提案したこと、明治19年(1886年)3月に参謀本部が改編され海軍も含めた統合参謀本部が設置、四将軍派の1人・曾我が陸軍部次長になった点や、軍拡案が大山・井上・伊藤らとの話し合いの末、明治18年から明治21年(1888年)度までの期限が明治26年(1893年)度まで延期に決まったことも大山ら主流派の不利になった[51][52][53]

しかし、やがて三浦案は月曜会の支持を得られず、逆に桂らが招聘したドイツ帝国軍人クレメンス・メッケルが紹介したドイツの軍事知識に衝撃を受けた月曜会は桂に切り崩されていった。一方、大山は薩派を中心に反撃を行い、明治19年に拠点とする陸軍省を強化する目的で四将軍派が拠点にしようとしていた監軍部の廃止、武官進級令の制定を提案したことで四将軍派とのさらなる対立を起こした(陸軍紛議)。7月に大山ら薩派が一斉辞職を盾に伊藤に制定を迫り、妥協した伊藤との話し合いの結果、両方認められる一方監軍部はのちに再設置することで話はまとまった。こうして紛議は主流派の勝利に終わり、伊藤らに見放され孤立した四将軍派は軍から排除され、月曜会も大山の命令で明治22年(1889年)に解散した。一連の対立に際して大山と桂がおもに動き、山県は表立って動いていないが、裏で大山らを支持し四将軍派の排除に一役買った[54][55][56]

反対派がいなくなり陸軍改革も桂らの手で着々と進んだことにより、陸軍は山県を中心とする派閥が形成されていった。山県は積極的に人材登用を行い、桂をはじめ児玉源太郎岡沢精など同郷人や中村雄次郎木越安綱ら他藩出身者も軍部へ取り立て、派閥を拡大していった。軍拡と組織体制も整い、明治21年に師団への変更と参謀本部の改編が行われ、参謀本部は翌明治22年に参謀総長を長とする軍事組織へと改編が完了、のちに同様の組織として海軍軍令部も作られ陸海軍双方の参謀本部が完成した。ただし、平常時で軍政に関わる事柄、特に予算関係は陸軍大臣が内閣と協議する慣例で、軍の中心は陸軍省にあり参謀本部は完全に陸軍省から独立したとはいえなかった[57][58]

地方自治の発達に尽力

内務大臣としての活動は地方自治の形成に尽力し、市制町村制府県制郡制を制定した。内相就任前から地方制度に関する意見を政府に提出していた山県は、市町村制の公布に際し、明治20年(1887年)1月から開かれた地方制度編纂委員会で委員長を務め、ドイツのお雇い外国人アルベルト・モッセ、同郷の青木周蔵・野村靖らを委員として、ドイツの制度を参考にした自治制を日本に合うように修正・定着する方針に決めた。地方が財政難の中各地方長官が急激な制度改革に反対、元老院大蔵省も反対したが、山県は制度実現に向けて明治21年2月までに立案・審議を終わらせ、4月25日にまず市制町村制が公布、明治22年4月1日以降に各地で順次施行、明治23年(1890年5月17日に府県郡制も公布された(施行はさまざまな要因で明治32年(1899年3月16日まで遅れた)。また、地方財政の対応策として明治の大合併を推進し、明治21年末から明治22年末までに約7万から約1万5,000と町村の数が激減するほどの合併を実行したが、こちらは地方に妥協し実情に合わせて配慮したため、旧町村と新町村の財政が一本化されない、新町村に吸収されたはずの旧町村の区域が名前を変えて残り、実際の町村は分離されたままという中途半端な結果に終わっている[59][60]

山県が地方自治に熱心に取り組んだ理由は、日本国民に政治の仕組みを地方政治を通して理解させること、および急進派や過激思想(特に自由民権運動)を政治から遠ざけ、穏健派を政治に迎え入れる意図があった。府県と郡の政治機関は官選の知事(郡長)と補佐する執行機関の府県参事会(郡参事会)、地方議会にあたる府県会郡会)で構成され、市町村も同じ構造で市長・市参事会・市会が政治機関で、町村もそれぞれ町長(村長)・助役・町会(村会)を置き、等級選挙と複選制(間接選挙)を導入して富裕層の政治参加を図った[注 6]。山県の狙いは普通選挙を導入して混乱を招くより、等級選挙で地方の有力者の政治参加を望み、地方議会政治を通して彼らを行政事務に慣れさせ、政治家として成長した地方議員達がやがて中央へ進出、将来帝国議会で堅実に政治を行うことを考えていた[63][64]

この山県の意図はあまりうまくいかず、府県会選挙をめぐり市町村会員選挙が混乱、明治32年に帝国議会との妥協で府県郡制施行の際に府県郡会の複選制と大地主参加を廃止、府県会は直接国税3円以上の納税者による直接選挙に変更され、府県も官選の知事に対して府県会の権力が弱いなど(代わりに府県参事会はある程度知事に制限をかけられた)、地方自治の発達につながらず当初の目的から後退した例が多かった[65]。それでも府県会と知事が相互牽制して両者の関係を成り立たせ、郡には町村が難題を抱えたときに代議決権を持たせるなど、工夫を凝らして自治育成の方針を残そうと努力した。また、自治を促しつつ国から地方へのコントロールも行える仕組みにも取り組み、国から地方への行政執行命令と国税徴収を通しての規制強化で、中央と地方の関係を構築させようと試みた。ただし、のちに山県は方針を変え、府県郡制施行で知事と郡長の権限を拡大、山県系官僚が郡を通して町村を統制したため、軍と並んで地方も山県の派閥の根拠地となっていった[66]

明治21年12月2日よりヨーロッパ各地へ視察旅行に出る。外国の地方自治制度と軍事を調査すること、および国会と地方議会の関係がどうなっているかを知ることが目的だった。フランスでは軍人政治家ジョルジュ・ブーランジェが大衆の人気を背景に打倒政府の首領に担がれたクーデター未遂事件(ブーランジェ将軍事件)を見聞、翌明治22年2月11日の宮中での大日本帝国憲法発布式典には、フランス滞在中のため臨んでいない。伊藤も遊学しており、当時「シュタイン詣で」とさえ言われるほど日本政府の要人らがオーストリアウィーンの憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインを訪れていたが、山県も訪問している。ほかにイタリア、ドイツ、イギリスにも出かけ、ドイツでグナイストクルメツキドイツ語版ビスマルクヴィルヘルム2世らのもとを訪問している。10月2日に帰国[67]

旅行で山県が得た知識・体験は中央で急進的な民衆運動が政治を混乱させていること、対照的に地方議会は平穏な状態を見て国会開設を否定的に捉えるようになった。自治制に協力したモッセの師にあたるグナイストからは、町村は住民の自治を基盤とするドイツ制度でよいとしながら、それより上の府県レベルには導入すべきでなく、官選の知事の権限が強いフランスの制度を採り入れることを忠告され、帰国後に公布された府県郡制に反映された。また、シュタインやクルメツキからはそれぞれ外交方針と議会操縦を学び、のちに山県が第1回帝国議会で発表する「主権線」「利益線」の概念と議会支持者の形成などに活かされるようになる[68][69]

これとは別に、琵琶湖疏水事業の後押しもしている。内務卿だったころの明治18年1月に京都府知事北垣国道に疏水起工特許を下し、5年後の明治23年4月に挙げられた竣工式に出席している。以後も山県と琵琶湖疏水との関わりは続き、のちに京都、それも琵琶湖疏水のほとりに別荘・無鄰菴を建てると、庭池に疏水の水を流してもらっているが、これは京都市が疏水事業を推進した山県への恩義からではないかとされている[70]

最初の組閣と対外遠征

政治家のころの山縣有朋

帰国後の12月24日、長州出身の陸軍軍人としては初めて内閣総理大臣(第3代)に就任(第1次山縣内閣)し、明治23年7月1日第1回衆議院議員総選挙を迎え、11月29日に開会した日本最初の帝国議会に臨んだ(明治天皇の計らいで現役軍人のまま首相。6月7日に陸軍大将に昇進)。超然主義をとり軍備拡張を進め、第1回帝国議会では施政方針演説において「主権線」(国境)のみならず「利益線」(朝鮮半島)の確保のために軍事予算の拡大が必要であると説いた[71][72][73][74]

対する野党・民党立憲自由党立憲改進党は激しく反発し、予算案の歳入を一部削る修正案を衆議院で作成、内閣も対抗措置として自由党議員の買収工作を行ったり、民党と関係が深い陸奥宗光農商務大臣を通して自由党との妥協を探り合ったりしている。結果、自由党内部から板垣退助を擁立する一派が政府の妥協を宣言、最初の帝国議会を円満に閉会させたい議員全体の意向もあり、予算案削減額はあまり変わらなかったものの、明治24年(1891年3月2日に衆議院で予算が成立した。貴族院も軍から政治に場所を移し山県との対立を継続した谷ら四将軍派などの反抗はあったが、4日後の6日に予算案は通過、8日に議会が無事閉会式を迎えたあと、5月6日に山県は首相を辞任[注 7]松方正義に譲り第1次松方内閣と交代した[75][76][77]

首相在任は1年5か月と短かったが、無事に帝国議会を終わらせたことで山県は政治家として名を上げ、伊藤に匹敵する藩閥実力者としての地位を確立した。第1次内閣の他の功績は府県郡制公布、内閣職権を廃して内閣官制を導入、明治23年10月30日に部下の芳川顕正文部大臣井上毅法制局長官と協力した教育勅語発布が挙げられる。以後は天皇の信任も獲得し、明治25年(1892年)7月に松方内閣が倒れると天皇から善後処置を伊藤や黒田清隆とともに下問され、協議の末8月に第2次伊藤内閣が成立、短期間司法大臣を務めたあと、翌明治26年(1893年)3月に枢密院議長へ転任した。このときの天皇からの下問と有力者協議がもとで元老制度が作られ、首相辞任時に元勲優遇の詔勅を下されていた山県も元老となる[78][79]

明治27年(1894年)7月から始まった日清戦争では、56歳にもかかわらず第一軍司令官として自ら戦地に赴き作戦の指揮をとった。「敵国は極めて残忍の性を有す。生擒となるよりむしろ潔く一死を遂ぐべし」と訓示している。配下の野津道貫が率いる第5師団が9月の平壌の戦い平壌を陥落させるなど戦果はあげていたものの山県自身は体調を崩し、11月に天皇に「病気療養のため」という勅命で戦線から呼び返され、12月に帰国している[注 8]

無念の帰国を余儀なくされた山県であったが、伊藤・井上らが山県の今後について打ち合わせ、天皇も体面を気遣い山県に第一軍司令官と枢密院議長を免じる代わりに監軍に据え、2回目の元勲優遇の詔勅を下すなど山県を少しでも慰めようと配慮した。その甲斐あってか、帰国後山県は体調を回復、戦後の明治28年(1895年8月5日には第二軍司令官だった大山、西郷従道海軍大臣とともに日清戦争の恩賞として旭日桐花大綬章功二級金鵄勲章を授与、伯爵から侯爵に昇叙された。明治29年(1896年)3月に日本を出国、アメリカ・ヨーロッパ経由でロシアに到着、5月のニコライ2世戴冠式出席という表向きの任務を果たし、裏では日清戦争後朝鮮に進出したロシアと交渉して妥協を見出し、6月9日山縣・ロバノフ協定で対等な関係を結んだことで日清戦争で減退した威信も回復、7月に帰国した頃には有力者としての地位を向上させていった[80][81]

山県閥の拡大と結集

日本では伊藤が内閣と議会の関係を模索、自由党と手を組み連立を構想、松方は伊藤への対抗として大隈重信の立憲改進党との提携を企てていた。しかし藩閥官僚はこれに強く反発、反政党を貫く山県を旗印とする派閥を形成し、伊藤と自由党の連立が進んだ明治28年11月から29年4月にかけて内務省官僚達が山県閥を作り上げていった。これにより山県閥が作られ始め、8月の第2次伊藤内閣総辞職後にできた第2次松方内閣では早くも山県派の官僚が4人(清浦奎吾法相など)も閣僚入りしている。続く明治31年(1898年)1月の第3次伊藤内閣、6月の第1次大隈内閣でも山県閥官僚が政治家として閣僚入り、山県本人も混乱する政局で天皇から指示・相談を受け、伊藤に次ぐ信頼を獲得していった。また、同年に大山・西郷らとともに軍人最高の地位である元帥の称号を受け、終身現役軍人になった[82]

軍と貴族院でも山県閥形成が進み、元から軍にいた桂・児玉や寺内正毅が陸相を歴任していった。これには長年の盟友大山の老衰と、参謀総長になっていた川上の明治32年5月の病死による薩派の衰退が原因で、川上の後任の大山は健康が優れず、薩派と対照的に山県閥が優位に立ち、陸軍でも山県閥が台頭していった[83]。貴族院は明治24年から近衛篤麿らが結成した三曜会、四将軍派のうち三浦を除く谷ら3人を中心に結成した懇話会が貴族院の政府・衆議院からの独立を掲げ反藩閥として政府に楯突いたため、親政府会派結成のため研究会茶話会にてこ入れし清浦・平田東助を送り込んで増員を企てた。明治30年(1897年)の議員互選で研究会が三曜会・懇話会に勝利して以降は、無所属団(第一次無所属)の誕生、および茶話会・無所属団などほかの会派を取り込んだ明治32年12月の幸倶楽部派の結成、研究会と幸倶楽部派の連携により貴族院も山県閥の多数派形成に成功、逆に三曜会・懇話会は互選敗北以後研究会などに対抗できず没落していった[84]

第1次大隈内閣は日本初の政党内閣で、板垣と大隈それぞれを事実上の党首とする自由党と立憲改進党の後身である進歩党が合同してできた憲政党が与党になり、内閣もほとんど憲政党員で占められた。山県はこの状況を嘆き「明治政府の落城」と言ったが、貴族院で反撃体制を整えるべく平田に貴族院の反政党派結集を工作させた。無所属団の結成と多数の賛成派を得て貴族院の大半を掌握したところで、明治31年10月末に大隈内閣が内部分裂で自滅したため肩透かしに終わり、天皇の諮問と黒田・西郷・松方・大山ら元老たちの相談を経て山県が首相に選ばれ、11月8日第2次山縣内閣が発足した[85][86][87]

閣僚は山県閥官僚と藩閥官僚からなる超然内閣だったが、山県は政党の発展および彼らの協力なくして政治が立ちいかない現実を理解していたため、大隈内閣崩壊と同時に憲政党も分裂し旧進歩党は憲政本党に改称、山県は星亨を中心とする旧自由党が再結成した憲政党との連携を考え、桂を通して憲政党と密かに接触していた。一方、平田など猟官運動で省庁を侵食し始めた政党に敵愾心を抱く藩閥官僚は山県の下に結集し、山県閥がより強固になったが、政党内閣の前例ができたことで超然主義に綻びが見えたことも事実であり、一部の藩閥が唱える政党排除論を退け、憲政党と協力し軍拡を軌道に乗せつつ、猟官運動など政党の要求をいかに抑えるかが山県の2度目の内閣の課題となった[88][89]

2度目の組閣、政党との妥協と対立

11月30日に内閣と憲政党の提携が宣言されたことで政策が簡単に通る見通しがつき、5年間の限定実施ながら地租増徴法案(2.5パーセント→3.3パーセント)を含んだ予算案が12月20日に憲政党の賛成で衆議院を通過、貴族院も27日に通過、成立した。見返りとして憲政党の要求のひとつである地方制度改革も実施、明治32年3月16日に施行した府県郡制の改正で府県郡会の複選制を廃止、代わりに直接選挙に変更、郡会の大地主互選も廃止し憲政党が地方議会に入れる余地を作った。これは地方の名士を政治に加え、地方自治を促すかつての山県の考えを放棄するやり方だったが、軍拡に必要な財源確保のため憲政党を味方につけ、地租増徴法案を通す方を優先した。一方、猟官を警戒し官選の知事・郡長の権力を拡大し地方支配を強化したが、これも地方自治の後退につながった[88][90][91]

譲るべき線は政党に譲ったが、猟官などほかの要求は制度改正で通らないように作り替える、あるいは衆議院で法案を通し政党の要求を実現するふりをして自らの領域である貴族院で大幅に修正、政党の要求を後退させた内容にして法案を可決させる老獪な手法で切り抜けた。その表れとして、同年2月に衆議院議員選挙法改正案を衆議院へ提出したが、貴族院では山県閥議員の運動で修正が加えられ、結果として廃案になった。また3月28日文官任用令を改正[注 9]文官懲戒令文官分限令を公布し、省庁に政党員を採用できないように高等文官試験に合格した官僚だけが就任可能なポストを次官・局長・知事にまで広げた。地租増徴に賛成したにもかかわらず選挙が改正されず、猟官の道も絶たれた星ら憲政党は憤慨したが、すぐ山県と決裂して見返りが入らなくなる場合を恐れ、しばらく政府との連携は続いた[92][93]

外交は山縣・ロバノフ協定などで関係を築いたロシアや列強との協調姿勢を取り、明治33年(1900年)6月に清で勃発した義和団の乱は列強の仲間入りを企てる桂陸相の計略で、イギリスが列強を代表して日本へ派兵要請した7月で派兵に踏み切り、列強で1番多い2万2,000人の軍を出兵し鎮圧に貢献し国際評価を高めた。しかし、戦後満州を占領し朝鮮にも進出したロシアを警戒し、軍拡で陸軍が8個師団まで増大、将来13個師団増加の可能性も出たため、対話を続けながら場合によっては強硬姿勢も辞さない姿勢を取り始めた[94][95]

義和団の乱が清で広がりを見せる前の明治33年3月10日、政治結社・政治集会の届出制および解散権の所持、軍人・警察官・宗教者・教員・女性・未成年者・公権剥奪者の政治運動の禁止、労働組合加盟勧誘の制限・同盟罷業(ストライキ)の禁止などを定めた治安警察法を制定し、政治・労働運動などの弾圧を進めた。

続いて29日には、前年11月に衆議院へ再提出し、年をまたぎ衆議院・貴族院で2月23日に可決された衆議院議員選挙法を改正し、選挙権を得る条件を地租または国税15円以上納税から10円以上に緩和するとともに、小選挙区制から大選挙区制に改めた。市制を執行している自治体はそれぞれ独立した選挙区とし、都道府県の郡部でそれぞれ1選挙区とした。このため、東京・大阪・名古屋などを除く大部分の都市は人口が少なく、定数1の小選挙区となった。また、記名投票を秘密投票に改め、小学校教員の被選挙権を禁止した。5月19日軍部大臣現役武官制を制定、政党の猟官排除を一層推し進め、貴族院へ勅選議員を多数送り込み貴族院の自派を強化し衆議院を牽制しようとした。山県は政党に配慮しつつも政党政治を嫌い、議会勢力と一貫して敵対した[96][97]

小選挙区制は強大な政党が生まれやすい(デュヴェルジェの法則)ことから、死票が少なく中小政党でも議席を獲得しやすい大選挙区制に改めて小党を分立させれば議会の懐柔がしやすくなるという計算があった。また政党が農村部で発達し始めたことから、選挙区の組み替えや国税納付の資格を緩和することで、これまでの地盤を破壊しつつ中央政府や主要都市部の意向を反映した議員を生み出しやすくする狙いがあったといわれる。もっとも、小選挙区が残ったこと、政党(政治)そのものが発展途上の時期であったことなどから、大選挙区制の下でも議席は大政党への集中が進んだ。

5月から山県は天皇に辞任を申し出るようになったが、義和団の乱の対応などを理由に留任された。同じころ、憲政党は山県から提携断絶を言い渡され、伊藤を党首に迎え巻き返しを模索し始めた。山県は10月19日に辞任したが、政敵である伊藤が憲政党と自分の部下たちを合流させ新党・立憲政友会を設立し、総裁に就任したことに伴うものだった。山県は辞任前伊藤に説得され新党結成を容認、辞任に際して後任に伊藤を推薦し第4次伊藤内閣を発足させたが、政友会設立直後のため体制が整っておらず政局は混乱した[98][99]

陸軍・官僚の大御所

第4次伊藤内閣に反発した山県閥は貴族院で内閣と対立、逓信大臣として入閣していた星を疑獄事件関与の疑いで追及し辞職、内閣に対しては予算案反対で妨害した。山県は直接伊藤と対立してはいないが、手助けや仲介もしないことで間接的に彼を窮地に立たせた。予算は、伊藤の要請で天皇が和睦の詔勅を貴族院に下したことで明治34年(1901年)3月に通ったが、財政で渡辺国武大蔵大臣とほかの閣僚たちとの間で深刻な対立が生じたため、収拾がつかなくなった伊藤は5月に辞任し内閣は崩壊、代わって山県の腹心桂が6月に首相となり第1次桂内閣が誕生、山県は桂の後援に回りたびたび彼と衝突する政友会との妥協や、参謀総長を辞めたがっている大山の説得にあたり桂を支えている[100][101][102]

明治35年(1902年)に成立した日英同盟を背景に山県は桂や伊藤ら元老たちと対ロシア方針を協議し外交の打開策を考える一方、伊藤と政友会の切り離しで分裂を誘うべく桂と策をめぐらした。翌明治36年(1903年)7月に伊藤が桂の工作で枢密院議長に就任したことで、政友会総裁を辞任した彼と政友会のつながりは絶たれたが、後任の総裁西園寺公望と幹部の原敬が政友会の動揺を防いだため、山県らの目論見は外れた[103][104]

山縣有朋

以後、陸軍・内務省・宮内省・枢密院などにまたがる「山県系官僚閥」を形成し、陸軍出身では桂や寺内正毅、官僚出身では清浦や平田らの後ろ盾となって政治に関与するようになる。明治37年(1904年)から38年(1905年)の日露戦争では参謀総長として日本を勝利に導いたこと、明治39年(1906年)に日露戦争の恩賞として菊花章頸飾功一級金鵄勲章を授与され、翌明治40年(1907年)には伊藤・大山とともに公爵も授与され臣下として最高の名誉を与えられた[105]。明治42年(1909年)に伊藤が暗殺されたことも加わり、明治末期から大正初期にかけて山県の発言力は増大したが、同時に反感反発も大きくなった。

山県は、軍事専門家としての見地から対外協調の重要性を認識しており、大正4年(1915年)の対華21ヶ条要求を批判した。山県が政党を嫌った理由として、対外硬派が政党に多く存在したことが挙げられる。軍部大臣現役武官制の制定も、政党政治家が無謀な戦争に走ることを避けるためと考えられている。

その後も、桂の政友会との協調と新党結成にともなう自立(桂園時代大正政変立憲同志会を参照)、大正デモクラシーや社会運動の高揚、第一次世界大戦など、時代が変化を受けながらも日本の将来を不安視する山県は政治に対するさまざまな干渉を続けたが、山県閥に対する批判は高まり、桂の死後には寺内や清浦らも独自の道を歩みだすようになる。そのような中で政党内閣の時代を迎え、山県は従来対立していた原敬を首相に推薦するに至り、次第に原を評価していくようになる[106]

このころまでに日本は著しい経済成長を遂げており、国内総生産は明治18年から大正9年(1920年)までに3倍に成長し、大戦景気に沸いた第一次世界大戦後には債務国から債権国へ、輸入超過国から輸出超過国へと転換した。さらに戦勝国として南洋諸島のドイツ権益を引き継ぐなど日本の国際的地位も上昇したが、山県はむしろ日本の急成長によって欧米人(特に日本と同じく大戦を契機に急成長を遂げたアメリカ合衆国)が黄禍論をどんどん強めていることに不安に感じていた。第一次世界大戦中には「黄色人種に対して白色人種が同盟を組んで対抗してくるような事態を防ぐため、何か手段を講じることは非常に大切である」と書いている[107][108][109]

失意の死

大正9年にはスペインかぜに罹患するが回復。しかしその後、山県の権威を損なうことになった宮中某重大事件に加えて原敬暗殺事件が発生した。原の喪失を嘆いた山県は、大正11年(1922年)2月1日13時30分、失意のうちに肺炎と気管支拡大症のため小田原の別邸・古稀庵において薨去[110][111]。享年85(満83歳没)。

葬儀は同年2月9日に国葬として行われた。当時の大阪朝日新聞は、その様子を以下のように伝えている。

棺は午前8時40分ごろに、安置されていた大蔵大臣官邸を出発。当時病身であった喪主の伊三郎田中義一島村速雄山梨半造などといった面々が、棺を載せた砲車につき従った。斎場の日比谷公園近くでは群衆が押し寄せ、その一部は当時建設中の帝国ホテルの敷地内まで入り込んだ。斎場の幄舎は二棟建てられ「一万の参列者を入れる為」の規模であったが、実際には「二棟で一千にも満たず雨に濡れた浄白な腰掛はガラ空き」という状態であった。来賓席の最前列には東郷平八郎が座り、その他将官も礼装に威儀を正して「軍国の花が一時に咲き揃った様」とも言われた。来賓や親族の拝礼が終わると一般人の拝礼が許されたものの、「一般人」の内実は山県家から入場券を送られた相手であり、そのうち「狂介の昔から元帥と時めく迄の友人或は世話になった書生下女の家の子郎党」ばかり700名が拝礼した。国葬のあと、棺は護国寺に運ばれ、そこに埋葬された[112]

1か月前に病没した大隈重信の葬儀が国葬ではなく「国民葬」とされ、多数の民衆が集まったのと比較すると、山県の葬儀は閑散としたものだった[113]東京日日新聞は、山県の国葬を「大隈候は国民葬。きのうふは〈民〉抜きの〈国葬〉で幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じた[113]。戒名は報国院釈高照含雪大居士[111]

当時東洋経済新報社の記者で、戦後総理大臣となる石橋湛山は大正11年2月11日『小評論』のコラムにおいて「死もまた社会奉仕」を発表し、山県の政治権力を「国会を憂うる至誠の結果」と評し、宮中某重大事件に関しても湛山は至誠から出た行為と評しつつも、「世の中は停滞せざる新陳代謝があって、初めて社会は健全たる発達をする」ことを指摘し、「人は適当の時期に去り行くのもの、死もまた一の意義ある社会奉仕でなければならぬ」と評している。

山県の死とともに薩長による寡頭的な藩閥支配はほぼ終焉した。元老は軍に対して強い影響力を持たない松方正義(彼も約2年半後に病没)と西園寺公望のみとなり、政府と軍を調停する機能を大きく失った。




注釈

  1. ^ 蔵元仲間は足軽以下の身分(武家奉公人も参照)。
  2. ^ 大正11年に松蔭の生誕地に設置された記念碑の表面に、「吉田松陰先生誕生之地碑 門下生 山縣有朋」と揮毫している[5]
  3. ^ 総人口に占める武士の比率が高かった薩摩藩ではこのような例はなく、西郷や大久保をはじめとする志士は下級とはいえ、みな士分であった。
  4. ^ 山県は時山の死を後悔し、現場の苦戦している様子を和歌で詠み「あだ守る砦のかがり影ふけて 夏も身にしむ越の山風」と長歎したといわれる。また後年に時山の墓を詣で、記念碑を建てる話が上がると碑文を書き、日露戦争前にも時山の死を思い出している[15][16]
  5. ^ この書状は熊本城解放後の4月17日に既に作成されていて(起草は福地源一郎とされる)、6日後の23日に西郷へ送られたが、届いたかどうか分からなかった。城山の戦い直前で山県は改めてこの書状を西郷へ送っている[39]
  6. ^ 市町村会の有権者は満20歳以上(被選挙権は満25歳以上)の男子で、市町村に2年以上住んで地租か直接国税2円以上を納めた人が公民権を獲得、それにより選挙権も認めるという仕組みだった。府県会は市町村会や郡会で選挙された議員が入る複選制で、郡会も町村会員の複選制と互選された大地主で構成されていた[61][62]
  7. ^ 第1回帝国議会での予算案審議に際し、自由党議員の一部を買収して予算案を通過させたことに対する批判の責任を取ったもの。
  8. ^ 藤村道生による、大本営の冬営論に従おうとしなかったために解任されたとの説(藤村道生 1986, p. 160-170、『日清戦争』1973年など)が従来から信じられてきた。しかし斎藤聖二が、当時としては老人とも言える年齢の山県が実際に病状を悪化させていたこと、大本営が既に冬季作戦論に転換していたことを実証して山県の召還は「健康への憂慮」と「戦略上の必要性」にあると指摘(『日清戦争の軍事戦略』2003年)しており、伊藤之雄も藤村の説には疑問を呈している(伊藤之雄 2009, p. 268-277)ほか原田敬一も「病気の軍司令官による冬季作戦はできない、という大本営の判断が山県解任の理由」とする斎藤の説を支持している(原田『日清戦争』2008年、p.187-p.192)。
  9. ^ 省庁、特に内務省の高級官僚から憲政党などの政党員を締め出した。この努力も、後に原敬によって押し戻される結果になる。
  10. ^ 実際に送られた書簡をインターネットで閲覧できる。3-1 2個師団増設問題国立国会図書館)参照。
  11. ^ 当時は軍部大臣現役武官制が施行されており、陸軍が新たな陸軍大臣を推薦しない限り内閣は総辞職をするほかなかった。
  12. ^ ただし、山県自身は倒閣までは予期していなかった。西園寺内閣の総辞職とその後の桂の大命降下には、山県により(内大臣侍従長として宮中に押し込められ、政権復帰を目指していた桂の策謀によるものが大きい(詳細は大正政変を参照)。
  13. ^ なお「平民宰相」として有名な原は、分家により士族から平民になっていたが、生家は盛岡藩の家老家の出身だった。自身が爵位を欲さなかったのは爵位を受けると衆議院議員の被選挙権がなくなることもあったが、伊藤や山県らのように元来の出自が低い新華族(勲功華族)に対する嫌悪感も大きな要因であった。

出典

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