大粛清
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埋葬場所
犠牲者はNKVD管理下の森で銃殺された[41]。処刑者はNKVD将校だったが、この件について一切口外を禁止され、粛清された犠牲者の遺族には、なにも知らされないか、不明の場所へ流刑にされたとか、死亡したとか、でたらめの話を聞かされた[41]。
犠牲者の遺体は多くの場合集団墓地へ投げ込まれた上に木を植えて証拠隠滅されており、ソ連崩壊前後の機密解除によりコムナルカ射撃場やブートヴォ射撃場などが特定された(en:Mass graves from Soviet mass executionsを参照)。また、新ドンスコイ墓地においては隣接した火葬場で犠牲者の遺体が焼かれたのちに遺灰が遺棄された。
現在ではこれらの集団墓地はロシア正教会の管理下に置かれ、慰霊碑が建立されている。ホロコーストとは異なり、犠牲者の処刑記録の多くにはこれら「埋葬場所」も記録されていた。[要出典]
外国人の被害者
当時のソ連に在留している外国人といえば、コミンテルンに参加するためにソ連に滞在している共産主義者か、または共産主義が禁止されている国からソ連に亡命してくる非合法組織の者か、そのどちらかが大多数であったが、彼らもスターリンの大粛清の前で例外とはされなかった。
外国人の大粛清犠牲者で有名な人物としてはハンガリーの共産主義運動の始祖でレーニンの信頼も厚かったクン・ベーラ(1937年5月逮捕、1939年11月銃殺)、ラトヴィア人共産主義者ロベルト・エイデマン(1937年6月銃殺)、スイス共産党創設者で、二月革命後のレーニンのロシアへの帰国を取り仕切ったフリッツ・プラッテン(逮捕後、1942年4月ラーゲリで銃殺)等が挙げられる。
大粛清の矛先は、コミンテルンに加盟している各国の共産党に対しても向けられ、ポーランド、ユーゴスラヴィア、モンゴル等の共産党幹部がソ連に召喚され、多くが粛清された。アドルフ・ヒトラーによる弾圧を逃れてソ連に亡命していたドイツ共産党指導部も、大粛清によって壊滅した。
また、ソ連国外でも共産主義者や共産党の政敵への殺害は行われた。当時内戦の最中にあったスペインでは、共産党の政敵だったマルクス主義統一労働者党 (POUM) の幹部アンドレウ・ニンがNKVDの要員によって誘拐・殺害(1937年6月20日)されている。当時ソ連の衛星国だったモンゴル人民共和国やトゥヴァ人民共和国では、貴族やチベット仏教僧を始めとする反体制派への大規模な迫害や、「日本帝国主義のスパイ」に対する摘発が行われた。
日本人の被害者
日本人からは、山本懸蔵(日本共産党員。1937年11月逮捕、1939年3月銃殺)、伊藤政之助(日本共産党員。1936年11月逮捕、1937年銃殺)、国崎定洞(ドイツ共産党所属でソ連に移住した元東京帝大医学部助教授。1937年8月逮捕、同年12月銃殺)、杉本良吉(演出家、日本共産党員、女優岡田嘉子の愛人。1938年1月逮捕、1939年銃殺)などソ連亡命中の共産主義者を中心に10-20名前後が粛清されたと見られる。
逃れた者たち
- ゲンリフ・リュシコフ[42] - 著書に『リュシコフ大将手記』がある。
- ヤルマル・フロント[43][42]
- ビンバー - 著書に『外蒙古脱出記』がある。
- 高谷覚蔵 - 著書に『コミンテルンは挑戦する[44]』(前編に「在露十年記」を含む)がある
- 正兼菊太 - 著書に『ロシア潜行六ケ年』がある。
- 熊谷大信
- 岡田嘉子
- 勝野金政 - 著書に『赤露脱出記』がある。
- 野坂参三 - 後の日本共産党議長。日本人同志の山本懸蔵ら数名をNKVDに讒言密告した。
- 久保田栄吉 - 大粛清より前ではあるが、便宜上ここに記す。モスクワにおいて軍事探偵疑惑としてチェーカーに捕まった。著書に『赤露二年の獄中生活[45]』がある。
- ハーマン・J・マラー - 生物学者。ニコライ・ヴァヴィロフの部下。1940年にアメリカに帰国。
- アナトリー・ヴェデルニコフ - 音楽家。ハルビンからの移住後、大粛清により父は銃殺、母は収容所送りとなっている。
- ^ a b c d マーティン・メイリア、白須英子訳『ソヴィエトの悲劇』(草思社、1997)上巻、p397-398.
- ^ 「スターリンの大テロル - 恐怖政治のメカニズムと抵抗の諸相 -」(O.フレヴニューク、富田武訳、岩波書店、1998年)
- ^ 「新たにシベリア抑留と大テロルを問う:バイカル湖の丘に立ちて恒久平和を祈る」(石井豊喜、日本文学館、2008年)
- ^ Seventeen Moments in Soviet History
- ^ 「The great terror:Stalin's purge of the thirties」(Robert Conquest, 1968)
- ^ 「The voices of the dead: Stalin's great terror in the 1930s」(Hiroaki Kuromiya, 2007)
- ^ 『世界歴史体系 ロシア史3』山川出版社、p242
- ^ アーチ・ゲッティ・オレグ・V・ナウーモフ編「ソ連極秘資料集 大粛清への道」(大月書店)p.622
- ^ スティーヴン・F-コーエン、塩川 伸明 訳『ブハーリンとボリシェヴィキ革命―政治的伝記、1888-1938年』(1979未來社)p.421
- ^ ワット 1955, pp.171-172
- ^ a b ワット 1955, p.172
- ^ ワット 1955, pp.172-173
- ^ 「陰謀説の嘘」デビッド・アーロノビッチ著、佐藤美保・訳、PHP研究所、2011年
- ^ ヤルタ会談の際にもスターリンは「やつら(日本人全員を指す)はどうせまた這い上がってくる」というコメントを残している。
- ^ a b c 「『外敵つくり団結』変わらぬ露―1937年『エジョフ機密書簡』が示すもの」産経新聞、2014年11月20日号8面。
- ^ a b c d e 石井規衛「補説8チェカーと赤色テロル」『世界歴史体系 ロシア史3』山川出版社、1997年,p84-85.
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- ^ ロイ・メドヴェージェフ『歴史の審判に向けて 上』2017年、p332.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『世界歴史体系 ロシア史3』山川出版社、p.217-227.
- ^ この時はまだヤゴーダ派の多くは引き続きNKVDの職務にあたっていた
- ^ 後に自らも粛清された際にエジョフは弁論の中で「私は1万4000人のチェキストを粛清しましたが・・・」などと述べている
- ^ スターリン「党活動の欠陥とトロツキスト的およびその他の二心者を根絶する方策について」(共産党中央委員会総会報告、1937年3月3日)J.V. Stalin, Defects in Party Work and Measures for Liquidating Trotskyite and Other Double Dealers:Report to the Plenum of the Central Committee of the RKP(b), March 3, 1937
- ^ コンクエスト、白石治朗訳『悲しみの収穫』恵雅堂出版、2007年、,p444-452.
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- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「大粛清」(コトバンク)
- ^ 百科事典マイペディア「大粛清」(コトバンク)
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- ^ [3]ロシア最高裁、人権団体の解散を命令 旧共産党による被害者追悼の団体、BBC(2021年12月29日)
- ^ スターリン大粛清80年、ロシアで追悼式毎日新聞 (2016年11月1日)
- ^ 「スターリンらの粛清、追悼碑 モスクワで完成式典」『朝日新聞』朝刊2017年11月1日
- ^ 外部リンク webcache.googleusercontent.comからのアーカイブ、12 May 2017 12:06:12 UTC閲覧。
- ^ また一説によると実際に1937年の春から夏ころにかけてトゥハチェフスキーを国家元首にかついでスターリンを追放しようという陰謀が正統派コミュニスト・党官僚・軍人らの間であったという(クルボーク事件)(亀山郁夫著『大審問官スターリン』(小学館)p.160)
- ^ 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01003869100、昭和04年「密大日記」第3冊(防衛省防衛研究所)」 標題:機密費使用に関する件[リンク切れ]
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