國粹会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/12 08:56 UTC 版)
日本国粋会・國粹会
設立 | 1958年 |
---|---|
設立者 | 森田政治 |
設立場所 | 東京都 |
本部 | 〒111-0031 東京都台東区千束4-3-1 |
首領 | 藤井英治 |
活動期間 | 1958年 - 現在 |
構成員数 (推定) | ┗構成員 ┗準構成員 |
上部団体 | 山口組 |
日本国粋会初代
大日本国粋会の復活を目指し、1958年(昭和33年)の7月に生井一家・森田政治総長、落合一家・高橋岩太郎総長らが結成。「保守反動政策排撃、進歩的健善政党支持」などの綱領を打ち出し、同日、高輪プリンスホテルで、生井一家、幸平一家、田甫一家、小金井一家、佃政一家、落合一家、信州斉藤一家、金町一家、伊勢紙谷一家、義人党や佐郷屋嘉昭、松本良勝、辻宣夫、防衛政務次官辻寛一ら400余名が出席し、「日本国粋会創立記念式典」が行われた。しかし、1965年(昭和40年)に第一次頂上作戦のターゲットにされて同年12月に一度解散した。
日本国粋会二代目
日本国粋会解散後、構成組織は前川一家・荻島峯五郎(全愛会議の重鎮)らが中心となり、連合体として『国粋睦』を結成[19]。東京斉藤一家の山田政雄が会長に就任した。1969年4月に小金井一家、中杉一家、辺見一家が脱退して二率会を結成[20](2001年に解散)。同年に『国粋睦』は名称を『日本国粋会』に戻し、山田が引き続き会長に就任した。
日本国粋会四代目
1991年(平成3年)における金町一家七代目総長・工藤和義の四代目会長への就任に伴い、日本国粋会から『國粹会』に改称。
山口組への加入と会長の死
2005年(平成17年)に工藤が山口組組長・司忍との盃事を敢行。これにより、組織は山口組の二次団体となった。『日本のヤクザ地図を塗り替える』とまで言われた出来事であった[21]。以降、山口組にて最高顧問の役に就いていた工藤であったが、2007年(平成19年)2月に自宅で遺体となって発見された。自殺と見られた[22]。
五代目國粹会
2007年(平成19年)3月5日、信州斎藤一家総長・藤井英治が國粹会の五代目会長となり、上部団体の六代目山口組の直参に昇格した[23]。 継承式は、同年4月19日に長野県諏訪市の信州斉藤一家本部事務所で執り行われた。
五代目國粹会組織図
- 会長 - 藤井英治(六代目山口組若頭補佐)[23]
- 若頭 - 橋本龍雄(七代目古河生井一家総長)
- 舎弟頭 - 渡辺佐重(七代目吉田川一家総長)
- 本部長 - 小嶋年記(八代目信州斉藤一家総長)
- 最高顧問 - 杉本潔
- 会長秘書室長 - 山本義治(破傘一家総長)
- 副本部長 - 斉藤光明(十五代目寺谷一家総長)
注釈
- ^ 板垣および、土佐国は史上一度も朝敵や賊軍になった事がない。
- ^ 板垣退助、楠木正成ともに「尊皇討幕」であったこと、両者ともに時代の転換期の武将で、多くの人の精神的支柱となり、国会議事堂には板垣退助、皇居には楠木正成の銅像が建てられ、また両者とも軍人出身で紙幣の肖像になった人物として共通項が多い。
- ^ 「一君のもと萬民悉く平等にして、みな同一均等の機會を有し、その間すこしも階級特權の存在を許さゞるは、我國建國の體制なり。(中略)しかりと雖も予が茲に平等均一といふは政治上における權利の平等均一と指すものにして、決してかの社會主義者の唱ふるが如く、社會上における生活の平等均一を指せるにあらず。けだし社會の實情において權利は之を平等均一ならしむることを得べきも、生活は決して之を平等均一ならしむることを得べからず。何となれば人間の智愚、強弱、勇怯、勤惰等の差別ある以上、これより生ずる所の生活の現象は自から相異ならざるを得ざるを以て也。(中略)社會主義の世界においては、勞働かしからずんば死か、この二者のうち一つを選擇せる可らざる場合、勞働が常に個人の上に來るべく、これが爲めに個人の自由を破壞し、その獨立自尊を傷け、その天爵(天性の才能)を認めず、人生を單に胃腑(胃袋)の問題に局限し、隨つて人智の退歩を來たし、社會の發展を阻み、人間の社會を變して禽獸の社會と爲すの虞あり。もし人間の社會にして個人の自由無からんか。かの自由衆異を生し、衆異眞理を生ずと言へるが如く、その個人敢爲の特性により、互に相反撥、競爭するが爲めに、その探求研磨の結果、遂に事物の眞理に到達する所の智識の源泉、向上の動機を失ひ、社會は遂にミイラの如きものと化さん。(中略)しいて、社會上における生活を平均せしめ、之を共有せしむるが如き社會主義は、我黨(自由党)の自由主義と相悖る(正反対である)所也」[3]
- ^ a b 「大日本国粋会大阪本部の發足。天王寺から中之島へ白襷姿で壹萬人。愈十五日に發會式を擧げる大日本國粋會大阪支部。嚢(さき)に東京に於て床次内相後援の下(もと)に發會式を擧げた大日本國粋會に於ては更に大阪に本部を設置する事となり當地の侠客・橘利八外数名が奔走中のところ、此の程愈團員が纏つたので来る(十二月)十五日、中之島公園で盛大なる發會式を擧げることゝなつた。當日は午前九時に各役員が住吉神社の神前で結血式を行ひ、それから更に天王寺公園へ会員約壹萬余人全部が集合し白襷を肩に行列を作つて中之島公園に繰込む筈である。尚役員は會長に男爵津守住吉神社宮司、副會長に樋口代議士、長谷部陸軍大佐、顧問に池松府知事、田中警察部長、池上市長、關助役、町田師団長、佐多医大学長、岸本弁護士会長の七氏と決つた」[7]
- ^ 東京都台東区千束4-3-1[18]
出典
- ^ a b 『平成21年警察白書 組織犯罪対策の推進:指定暴力団の指定の状況』 (p.109) 2009年7月 警察庁
- ^ 『<暴力団>国粋会会長が自宅で自殺 先週発砲事件で和解』 2007年2月15日 エキサイトニュース,毎日新聞
- ^ 『社会主義の脅威』板垣退助著(所収『立國の大本』)
- ^ a b c d “『板垣精神 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年8月30日閲覧。
- ^ 池本淳一、「嘉納健治の「柔拳興行」と日本ボクシング史におけるその位置づけ」 『体育学研究』 2014年 59巻 2号 p.529-547, doi:10.5432/jjpehss.13107, 一般社団法人 日本体育学会
- ^ 『日本社会運動通信附録』国立国会図書館デジタルコレクションコマ番号4/33
- ^ 『大阪朝日新聞』大正9年(1920年)12月12日号より)
- ^ 山平重樹『義侠ヤクザ伝 藤田卯一郎』幻冬舎<幻冬舎アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9 のP.50
- ^ 『幻のB級! 大都映画がゆく』 p36
- ^ 『部落史ゆかりの地 奈良県寺川「水国争闘事件」水平社と国粋会の激突』解放出版社編、2005年
- ^ 『水平社対国粋会争闘事件求刑』大阪毎日新聞、1923年12月8日号
- ^ 『部落解放運動について(2)』木村京太郎著(所収『燎原』1982年6月1日号)
- ^ 『流転の民権家 村野常右衛門』色川大吉著
- ^ a b c 『国粋』(第3号)1931年4月1日号
- ^ 「KS生」と名乗る匿名の人物が、堀川辰吉郎を「男の中の男」と褒めちぎった内容の投稿であるが、それだけ自信をもって褒めるのであれば、匿名である必要がなく、記事に登場する堀川の武勇伝なども「KS生」と名乗る人物しか知り得ない、傍証のない出来事であり、今日では堀川自身による自作自演による自己宣伝であると考えられている。
- ^ 『頭山精神』藤本尚則著
- ^ a b 『闇の世界権力構造と人類の針路「力の道」から「命の道」へ』中丸薫著71頁
- ^ 『平成13年版警察白書:第4章 暴力団総合対策の推進>指定暴力団の指定の状況(p.138)』 2001年 警察庁
- ^ 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p27-28
- ^ 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p111
- ^ 六代目山口組完全データBOOK 2008年版 『衝撃の拳銃自殺から1年 工藤和義最高顧問一周忌』 (p.42-44) 2009年2月1日 メディアックス ISBN 978-4-86201-358-3
- ^ 『国粋会会長、拳銃自殺か』 2007年2月15日 日本経済新聞
- ^ a b 『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス 2008年 ISBN 978-4-86201-328-6 (P.10)
- ^ a b 『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6 のP.84
- ^ 『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6 のP.83~P.84
國粹会と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 國粹会のページへのリンク