国鉄60系客車 系列

国鉄60系客車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/09 13:29 UTC 版)

系列

三等車(本州以南向け)

オハ60形

1949年(昭和24年)から1950年(昭和25年)の間に390両 (1 - 390) が製作された、定員96名の狭窓タイプの三等車。窓幅は700 mmで、座席2区画で窓が3枚という、木造車時代の窓割を継承している。

車体側面の雨どいが省略され、出入台上の屋根に簡易な水切りが設けられた。後に、109両が座席をセミクロスシートとしたオハ60形1000番台に改造されている。座席をオールロングシートに改造された15両は、オハ63形となった。初期の製造車両では、洗面台用の仕切り窓に、船舶用の円形硝子が使用された。後年の整備に依って雨樋が設置された車両も存在していた。

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オハフ61形

オハフ61 2751 会津若松駅(1981年)車端にある車掌室の側から見る

1950年より795両 (1 - 795) が改造された定員88名の三等緩急車。窓幅はオハ35形と同じ1,000 mmとなった[25]。初めて車掌室を車端に移し、客室との間に出入り台を設けた[26]。この構造は、スハフ42形など以降の緩急車にも継承された。

尾灯は着脱の手間を減らすため、客車としては初めて妻板に埋め込み式で取付けられた[注 17]。これには1947年2月の「運転取扱心得」改訂により尾灯の2灯掲出が義務付けられた背景がある[25]

尾灯の設置位置は車体中心から左右に1,000 mm、床面から上に1,000 mmを基準とし、緩急車で車掌室側妻面に監視窓がある場合は左右とも高さが床面から380 mmになるなどの差異があったが、1951年度以降の鋼体化車は前後妻とも床面から380 mmの高さに統一された[27]。尾灯には折畳式の円板が付いており、掲出時は上部に展開して赤色に塗装された面を開き、自重で折り畳まれないよう押金で固定された[25]

便所もスハ43系と同様にタイルでシーリングされた汽車便所スタイルとなり、水タンクも増量(700リットルのものを床下に1個装備に変更)され、長距離運用を可能にした。

後に、21両が座席をセミクロスシートとしてオハフ61形1500番台に、2両がオハフ64形になった。1965年には、北海道内で運用されていたオハフ61形 (370 - 379) に2重窓化などの改造を施し、オハフ62形 (31 - 40) に編入した。

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オハ61形

オハ61 2717 会津若松駅(1981年)

1951年より1,052両 (1 - 1052) が改造された定員96名の三等車。オハフ61形・スハニ61形に続いて幅1,000 mmの側窓が採用された[28]

後に、114両がオロ61形、オロフ61形に改造されたほか、92両が座席をセミクロスシートとしてオハ61形1500番台に、緩急車化した71両はオハフ61形1000番台になり、5両がオハ64形となった。

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三等車(北海道向け)

1950年に登場したオハフ60形では北海道向けの二重窓車で窓幅は狭幅の700 mmであったが、1951年度のオハ62形からは設計統一の利点から本州向けと同じ窓幅となった。二重窓には鎧戸が設置できないため、巻き上げ式カーテンを装備している。床下の蓄電池も大型化され、歯車式車軸発電機を装備している。

北海道や東北北部で使用された。後天的な改造であるが、一部の車両には、混合列車での使用のためにダルマストーブや独立暖房装置(温気暖房機)が取り付けられていた。

オハフ60形

1950年(昭和25年)より70両が改造された、定員88名の北海道向け狭窓タイプの三等緩急車。雨樋は装備されている。この車両が登場した当時は、既に本州向けとして1 m窓のオハフ61形の改造が開始されていたが、当時は1 m窓の二重窓化が技術的に難しかったため、狭窓として落成した。

1974年(昭和49年)には1両が新幹線雪害対策試験車(オヤ90形)に改造されている。一部尾久区に存在していた事もあった。

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オハ62形

1951年より130両が改造された北海道向け三等車。窓幅は本州向けのオハ61形と同じく1,000 mmで、オハ61形の鎧戸に相当する部分に二重窓の内窓が設置された[29]。内窓には釣り上げばねが無いためオハフ60形の狭窓と比べて重くなったものの、夏季は上部に収納し、冬季は窓の開閉機会が少ないため、実用上の問題は大きくないとされた[29]

後に6両がキハ40(初代)やキサハ45に改造され、1974年には1両が新幹線雪害対策試験車(オヤ90形)に改造されている。

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オハフ62形

1954年より30両が改造された北海道向け三等緩急車で、オハフ61形をベースに窓をオハ62形と同じ1,000 mm幅の二重窓とした[30]。側窓を狭くする利点が少なく、設計を統一した方が有利とされたため、窓幅は広幅に統一されている[30]

後に5両がキハ45(初代)に改造された。オハフ61形 (370 - 379) から編入されグループ (31 - 40) は蓄電池箱が在来のオハフ62形よりも小さい。

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優等車(グリーン車)

当初から優等車として製造されたスロ60形・スロ50形と、後年オハ61から改造されたもの、および和式客車がある。

スロ60形

1950年度に、鋼体化改造により大井工場と大宮工場にて計30両が製作された特別二等車。日本の二等車として、戦後にGHQの指示で開発が始まった自在腰掛 (リクライニングシート)が初めて採用され、特別二等車の初形式となった。当初は新製車のスハ42形を定員44名の一等車に改造する計画で、スイ32形の形式を想定していたが、設備の都合で転用改造が不可能とされたため鋼体化改造車としての製作に変更された[31]

国鉄としては従来の二等車とは設備格差が大きすぎるため、一等車のスイ60形[31]として登場させる予定だったが、GHQ側の強い意向により二等車とせざるを得なくなった。突貫工事で製造されており、運用開始後約1年後の国鉄関係者による座談会で「窓枠のペンキが投入後1年で剥げている」という指摘に対し、参加者の星晃は「設計を始めてから4カ月余り」「最初の1両は実際仕事(工事)を始めてから3カ月」で急造せねばならなかった事情を吐露している[32]

室内は、列車の進行方向に合わせて回転できる2人掛けのリクライニングシートが22脚設置(定員44名)され、客室窓は1,000mm幅の広窓になっている。

便所は洋式のものが前後に1箇所ずつ設置され、水タンクも増量(床下に700リットルのものを2個設置)された。前記の通り計画の段階では一等車として落成する予定であったため床下への冷房装置搭載スペース確保や冷風ダクト設置などの冷房取付準備工事が施されていたが、二等車としたことにより冷房装置の取り付けなどは見送られ、最終的には実現しないまま終わった。冷風ダクトなどは近代化改造工事の際に撤去されている。

台車は乗り心地を改善した鋳鋼枠ウイングバネ式台車のTR40形を装着している。

後に、6両 (13 - 18) が荷物保管室を車掌室に改造する工事を施工され、100番台(113 - 118、元番号+100)となった。

冷房化工事の対象外になったため、荷物車への改造あるいは廃車により淘汰され、スロ50形共々、グリーン車になった車両は存在しない。

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スロ61形→スロ50形

1950年度に、鋼体化改造により大宮工場にて10両が製作された特別二等車。当初は完全新製車として計画されたが、価格面でメーカーと折り合わず、国鉄工場製の鋼体化改造車として製作された。そのためスロ61形として出場したが、新製車の予算で鋼体化改造が施行されたため、予算処理上の都合で、すぐにスロ50形に改形式され、鋼体化改造の銘板も新製の銘板に取り換えられた[26]

基本的な構造はスロ60形と変わらないが、座席のピッチが狭くなり、定員が48名となった。これにより窓割りも変更され、700ミリ幅の狭窓が並ぶ形態となった。便所は前後2ヶ所にあるが、和式に変更されている。この設計は、のちに新製されたスロ51形・スロ52形に踏襲された。

スロ60形、スロ50形ともに、一等車(二等級制時の)の冷房改造工事の対象から外されたため、大部分の車両が後述の荷物車(マニ36形、マニ37形)に改造された。

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計画のみの形式

木造二等車の代替用としてリクライニングシートを装備しない三等合造車「オロハ61形」が計画されていたが、戦時中に三軸ボギー優等寝台車を三等客車に格下げ改造したマハ47形を元に、二・三等合造客車のスロハ38形に再改造する方が改造費用が安いために増備策として選択され、鋼体化改造車としての実際の増備には至らなかった。[要出典]

座席郵便荷物合造車(本州以南用)

座席郵便荷物合造車は当初の計画では17m級のままでの鋼体化が計画されたが、結局全形式とも20m級として改造工事が実施された。

オハユ61形

3等座席郵便合造車で、1955年に11両が鋼体化改造により製造された。

オエ61形に改造された1両を除き、1967年 - 1973年の間に全廃された。

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オハユニ61形

オハユニ61 107(碓氷峠鉄道文化むらに保存)

3等座席郵便荷物合造車で、1952年から1956年までの間に130両が鋼体化改造により製造された。大量に製造された理由としては、前記の1951年6月の総武本線四街道駅での木造車破損事故に伴う対策で老朽化木造客車を大量に改修・廃車した際、郵便車が不足したためである。

客室デッキ側から見ると、3等座席・郵便室・荷物室の順で3室が配置されている。106以降は、郵便室部分の区分室と郵袋室の位置が逆転している。

1960年代から荷物車などへの改造や廃車で減少し、1984年には2両を残すのみになり、最後まで残った106・107の2両は五能線での使用を最後に1987年に除籍されたが、107は高崎での長期留置を経て、碓氷峠鉄道文化むらで静態保存されている。五能線では混合列車の運用のために独立式温風暖房機を装備しており、107の床下にはこれが現在も残されている。

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オハユニ63形

3等座席郵便荷物合造車で、オハユニ61形と異なり、郵便室・荷物室が共用構造となっている。1954年に40両が鋼体化改造により製作されたが、1960年から1962年にかけて全車マニ60形に改造された。

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スハニ61形→オハニ61形

1950年 - 1955年に475両が鋼体化改造により製造された3等座席荷物合造車。荷物室の荷重は5 tでス級であったが、ローカル線での牽引両数確保に問題があるため、1954年に4 tに削減され、全車がオハニ61形に形式変更された。形式変更以降の製造車は当初からオハニ61形。

この形式のうちの14両(501 - 514) は、北海道向け車として1重窓ながら蓄電池の大型化などの対策を実施の上で製造されたが、1重窓であったことなど耐寒耐雪が徹底されていなかったことが災いし、登場後数年で水戸や秋田などに転属したものが存在した。車掌用の後部確認窓がなく、後部標識灯が高い位置に設置された車両が存在している。

> 番号新旧対照

オハニ63形

優等列車用の三等座席荷物合造車で、三等室はスハ43系に準じた造りである。製造当初は、暫定でTR11形を装備しオハニ63形と称していた。1955年から1956年の間に30両が鋼体化改造により製造され、優等列車に充当された。アコモデーションが在来車に比して改良されたスハ43系客車は、1950年代に急速に各地の優等列車に投入されたが、特急用以外の座席荷物合造車の新製投入がなかったため、その代替として鋼体化車の本形式が充当された。当初予定では手配でき次第国鉄工場にてTR23形台車に振替する予定であったため、あらかじめそれに合わせたブレーキ連結棒取り付け穴も開けられていた[33]

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座席郵便荷物合造車(北海道用)

スハユニ62形

オハユニ61形の北海道向け車。1952年に20両が鋼体化改造により製造された。構造は、オハユニ61形の前期形(1 - 105)と同じである。側窓は二重窓で、暖房強化や蓄電池増設も行われている[34]

大部分がマニ60形に改造され、スハユニのままで最後まで残されたのは6両のみである。最後の1両となったスハユニ62 10は当初は苗穂区に配置されたが、最終期には都城区に転属され、1984年に廃車された。同車は全般検査の周期が切れるまで余裕があったことと、都城区でハユニが不足していたため、北海道向けであった同車の九州への転属が成立した。

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オハユニ64形

オハユニ63の北海道向け車で、1954年に10両が鋼体化改造により製造されたが、1962年・1963年に全車マニ60形(電気暖房付2000番台)に改造され、本州各地に転属した。

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スハニ62形

スハニ61形の北海道向け車で、1952年から1956年の間に45両が鋼体化改造により製造された。

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郵便・荷物車

こちらも当初は17m級のままでの鋼体化が計画されていたが、全車20m級として改造されている。

鋼体化郵便車は4両しか改造されなかった。その背景には、当時郵便車が郵政省所有であることが大きかったためといわれている。前記の通り、台枠を延長する際は他車からの部材を切り継いで改造していたが、郵政省の財産に国鉄所有の部材を取り付けるわけにはいかず、区別のための管理や作業に手間がかかる。そのため、しばらくはオハユニ61を大量に改造して郵便輸送に充当し、残存する木造郵便車は新造の鋼製郵便車で置き換えた方が良いと判断された[35]

オユ60形

郵政省所有の郵便車で、1950年に2両が鋼体化改造により製作された。1955年に、全車がオユ61形と同構造に改造され、オユ61形に編入された。

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オユ61形

郵政省所有の郵便車で、1952年に2両が鋼体化改造により製作された。1955年にオユ60形改造車が編入された。

> 番号新旧対照

スユニ60形

鋼体化改造により製造された郵便荷物合造車で、1954年から1955年の間に67両が製造された。荷重は、郵便室4t・荷物室6tである。

20両(201 - 218・301 - 302)は、北海道向け車として製作された。全車が車体強度の点で有利な魚腹台枠を備える車両を種車としている。台枠は301 - 302を除き、UF15形を改造したUF219形である。301 - 302は、オハニ25760形から流用した特殊魚腹台枠のUF16形を改造したUF220形である。

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マニ60形

荷重14トンの荷物車で、565両が製造された。当初から鋼体化改造により全室荷物車として製造されたグループと、1960年以降に鋼体化客荷合造車などから全室荷物室化改造で編入されたグループに大別される。最終的には合造車改造グループの方が多数派となった。

当初は1953年から1955年の間に205両が鋼体化改造により製造され、このグループは狭窓が多用されているのが外観上の特徴である。

本州向け長形台枠車 (1 - 44) 、青函航送用魚腹台枠車 (201 - 240) 、北海道内用魚腹台枠車 (241 - 245) 、本州向け魚腹台枠車 (301 - 307, 351 - 459) がある。スユニ60形同様に魚腹台枠は2種類存在し、301 - 307がUF220形、それ以外がUF219形である。


注釈

  1. ^ ただし八高線事故が起きた1947年2月当時は、石炭不足を理由に急行は全廃されていた。同年4月から急行列車の運転が復活し、特別急行列車が復活したのは1949年9月である。
  2. ^ 鉄道国有化前に設計・製造された、官鉄日本鉄道山陽鉄道関西鉄道などから継承された種々雑多な客車群を指す(鉄道国有化後製造であっても、車両標準化以前の旧式構造を継続して1911年頃まで製造された客車も含む)。
  3. ^ 特に総武・房総地区路線には老朽度の高い木造車が集まっており、千葉県在住の鉄道愛好家白土貞夫による「千葉鉄道管理局における天然ガスカーの盛衰」(『鉄道ピクトリアル』177号、1965年11月、p.27)の記述によると、1949年3月当時、総武・房総各線を走る客車340両のうち83%の282両がナハ22000形などの木造車で、「雨漏がして久留里線の車中で傘をさしたという乗客の声がNHKラジオの電波に乗るような最悪な状態」であったという。
  4. ^ 50系電車・62系電車1934年(昭和9年) - 1944年(昭和19年)改造。
  5. ^ オハ31980・オハフ34180形およびスイテ37050形の計5両。1939(昭和9)・1940年(昭和15年)改造。
  6. ^ ナロネ20100形、ナイロ20500形、ナロ20600形・20850形、ナロハ21300形、ナハ22000形、ナハフ24000形などの一般に22000系(同時期製作の20 m級3軸ボギー車との区分上、大形2AB車とも呼称された)と呼ばれる17 m級2軸ボギー車。
  7. ^ ホロハ18230形・18260形、オハ18000形・18430形、スハ18500形、ナロハ11300形・11600形、ナハ10000形、ホハ12000形・13000形などが種車とされた。大型客車との対比で「中型客車」とも呼ばれる。
  8. ^ 1952年時点の星晃の記述では魚腹台枠のみ全長17 mのまま鋼製化することも考えられていた模様であるが[要文献特定詳細情報]、結局は20 m延長工事が実施された。
  9. ^ 昭和時代に入ってからの20 m鋼製客車で標準装備された低圧式蒸気暖房装置に対し、それ以前の木造車で使われていた高圧式蒸気暖房装置は、温度向上は早いが熱効率が低く、圧力の高さで安全性に劣り、また長大編成内では機関車に近い車両と遠い車両とで暖房の効きに大差が出る問題があった。以上は、坂上茂樹・原田鋼 「機関車ボイラにおける負荷の一要素としての蒸気暖房 : 列車蒸気暖房の端緒から連合軍専用列車の時代まで大阪市立大学経済学研究科『Discussion Paper』No.88、2015年4月1日、pp.15-16、ほか[要文献特定詳細情報]による。
  10. ^ 北海道向け車は、通常は鎧戸が収まる窓上の天袋部分を、耐寒用の二重窓の内窓スペースに充てねばならず、日よけには別に巻き上げカーテンが必要であった。
  11. ^ 鋼体化着手後に、国鉄名古屋工場の木工場で砥石を用いて薄鋼板にて鎧戸羽板の加工を低コストに行う手法が考案され、以後鋼体化客車の窓用鎧戸はプレス鋼板化され名古屋工場で集中生産されている[要出典]
  12. ^ 国鉄のほとんどの線区で蒸気機関車牽引が当たり前であった時代、長距離乗客には顔や手の汚れを洗い落とす設備提供が必要であった。主要駅のプラットホーム上にも一度に大人数が利用できる洗面台が設置されていた。
  13. ^ 映画『生れかわる客車』では、種車となる木造客車の老朽化した車内も撮影されているが、荷棚や座席土台に鋼体化客車と同形の金具が用いられているのが見受けられる
  14. ^ 1948年(昭和23年)10月の段階で組み込み先となる大形客車が3,298両あったのに対し、基本・中形客車は1,720両あり、大形客車を全車改造しても半数以上が余剰となった。
  15. ^ 1948年(昭和23年)10月の段階で3軸ボギー式が97両、2軸ボギー式が528両、と第一線を退いたとはいえいまだ多数が残存していた。
  16. ^ 事故車は1925年製木造車で戦時中に客室車端部座席を撤去して床面積を広げてあり、車内側板に立ち客の圧力を直に受ける状態であった。成田線から直通の千葉駅方面上り列車で運行中、佐倉駅到着前から客の圧力で腐朽部の破損が広がり出し、事故車が列車から外された四街道駅到着時点で、車体隅柱の開きが180mm、長土台部分破損長さ2メートルに達した。事故車は事故翌月の7月に鋼体化予定で、老朽化進行した木造車体の修繕がおろそかになっていた(I生「客車の盲点」『交通技術』1951年7月号、交通協力会、pp.28 - 29による)
  17. ^ 戦前まで客車は、車両本体の管理は工作局(現業は検車区)、尾灯・扇風機などの電装品の管理は電気局(現業は車電区)が管理し、尾灯については車両運用とは別に尾灯用の運用が存在し、車電区職員が着脱をおこなっていた。1954年、組織改正により現業部門が客車区・客貨車区に統合されたのを機に、車両管理の簡素化を狙って尾灯の車体一体化が実現することになった。[要出典]
  18. ^ この時代、特別二等相当のリクライニングシート車の標準座席間隔は1,160mmにほぼ定まっていた。1950年代前半の「特ロ」各車増備過程において、座席間隔設定を試行錯誤した経験でスロ53形において見極められた数値で、以後60年以上に渡って、国鉄・JR各社の新幹線を含む優等車両用リクライニングシート車の多数で踏襲されている。[要出典]
  19. ^ これら2形式より軽量かつ新しい一等客車としては、ナロ10形(オロ11形)が当時存在した。しかしそれらは東海道・山陽本線系統の急行に1975年の全車廃車まで集中投入されており、上野発着急行に充当する余剰車は存在しなかった。
  20. ^ 格上げ改造当初に(乗り心地改善も兼ねて)軽量台車に取り替えているため、スロ54の冷房改造のときのような元より軽い台車への交換で重量増分を帳消しにする手法が採れなかった。
  21. ^ 国鉄社員の匿名筆者による当時のレポート記事・TY生「誌上案内 急行列車の巻(8)」(『鉄道ピクトリアル』No.67(1957年2月号)、鉄道図書刊行会、pp.16 - 17)では、当時俊足で知られた上越線急行『越路』の編成紹介で「殿りをつとめるオハニ63はなかなかケッ作で、室内装飾はスハ43並みでスハニ35などより良いが、足廻りはTR11でゲン滅どころか果してこれで90キロも出るのか一寸心配になる」とまで書かれた。

出典

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  5. ^ 『鉄道データファイル』107号、デアゴスティーニ、2006年3月、p.1 - 2
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  7. ^ a b 『鉄道データファイル』107号、デアゴスティーニ、2006年3月、p.2
  8. ^ a b c 瀬古龍雄「木製客車通観(終)」(『鉄道ピクトリアル』1956年9月号、鉄道図書刊行会、p.40
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  11. ^ 三橋・葛・藤本『オハ61形の一族 上巻』p.103
  12. ^ a b c 三橋・葛・藤本『オハ61形の一族 上巻』p.104
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  18. ^ a b 三橋・葛・藤本『オハ61形の一族 上巻』p.113
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  20. ^ a b 『鉄道データファイル』107号、デアゴスティーニ、2006年3月、p.3
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  28. ^ 三橋・葛・藤本『オハ61形の一族 下巻』p.150
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  33. ^ 『鉄道ピクトリアル』700号(2001年5月号)、電気車研究会、p.29
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  44. ^ a b 三橋・葛・藤本『オハ61形の一族 下巻』p.235
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  51. ^ a b c d e f g h i 岡田誠一「鋼体化客車 車両のあゆみ【後編】」『鉄道ピクトリアル』2001年6月号、p.25
  52. ^ 「平成〜令和の旧形客車」『鉄道ピクトリアル』2021年7月号、p.112
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  54. ^ a b 「平成〜令和の旧形客車」『鉄道ピクトリアル』2021年7月号、p.108
  55. ^ a b 鉄道ファン』1998年1月号(通巻441号)、交友社、p.112
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