南京戦 参加兵力

南京戦

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参加兵力

日本軍

戦闘序列概略[22]旅団以下、各連隊の詳細は南京攻略戦の戦闘序列へ。

左より長谷川清(支那方面艦隊)、松井石根(中支那方面軍)、朝香宮鳩彦王(上海派遣軍)、柳川平助(第10軍)の各司令官
中支那方面軍(司令官松井石根大将)
総兵力は約20万人[1]

中国軍

12月22日に鹵獲されたソビエト製I-16戦闘機
南京(首都)衛戍軍[22](司令官唐生智
  • 東北部配備:第2軍団(司令官徐源泉)
  • 東部配備:第66軍
  • 南部配備:第71軍、第72軍、第83軍
  • 西南部:第74軍
  • 北部配備:第78軍
  • 江岸配備:江防軍
  • 教導総隊、憲兵部隊(2団)、装甲兵団 (2連)等
  • ソ連空軍志願隊[24]

いわゆる南京師団とよばれた防衛軍は、広東軍、広西軍、湖南軍によって編成され、南京城内の防衛はそのうち第36師団、第88師団であった[25]。広東軍は追撃戦で打撃を受けており、南京に撤退後、未熟な新兵を補充していた[25]。なお蘇州-句容間の前線で抗戦してきた四川軍は蕪湖方面に撤退し長江を渡河し首都攻防戦には加わらなかった[25]

南京防衛軍の総兵力に関する諸説

国民党や日本側の資料など

国民党の資料によれば、将緯国将軍は約14個師[注釈 1]、また作戦経過概要等では12月初に約15師強とする[26][27]

  • 孫宅巍がまとめた中国の戦闘詳報によれば、第2軍、第83軍は不明で、第66軍は9000、第36師は11968[28]、第74軍は17000[29]、第87師は1万、第88師は6000、教導総隊は35000[30]、103師は2000、憲兵5490で、合計96,458[31]
  • 撤退時には、10余万の大軍が長江岸に雲集し、邑江門から10余万が退出した[32][27]
  • 国民政府軍令部第一庁長の劉斐は南京防衛軍は合計10余万人とした[33][27]。杜聿明も同値[34][27]
  • 第78軍・第36師長宗希濂は当初は7万前後で、さらに3個軍の4万人が増加し合計約11万余人となったという[35][27]
  • 南京防衛司令長官部参謀処第一科科長の譚道平は、12月8日に10万に達したという[36][27]
  • 第78軍第36師第108旅第216団第一営長の欧陽午は、南京外囲陣地と南京複廓陣地に合計約11万が配備され、20万人と公称したという[37][27]

日本側の資料によれば、上海派遣軍参謀長飯沼守は約20コ師10万人で日本軍が撃滅したのは約5万、海軍と第10軍の撃滅したのは約3万、約2万は散乱したと記した[38][27]。第十六師団参謀長・中沢三夫によれば、基本部隊計8~9師で当初一師5000だったが1万に増加し8~9万となり、また以前の上海派遣軍第二課調査で20師推定から、総計10〜13万の兵力と推定した[注釈 2][27]

アメリカ側の資料によれば、12月10日後のアメリカ大使館報告では、陥落前に人口の8割が市を脱出し、主要部隊は撤退し、防衛軍は5万人とされた[39]

ニューヨーク・タイムズダーディン記者は中国軍は16個師団約5万人が参加したが、3万3000が殲滅されこのうち2万名が処刑されたと報道した[40]。偕行社『南京戦史』は、このダーディン記者の推定は概ね妥当とし、さらに中国軍戦闘詳報での78軍が二個団補充、2軍団(10軍)の二個師、74軍の二個師はいずれも7000兵力で、これを加算すれば6-7万[41]、鎮江-丹陽-東昌街付近をのぞく南京付近の総兵力は65,500〜70,500人と推定する[2]

1937年12月17日のマンチェスター・ガーディアン・ウィークリーは、上海から退却した中国軍30万のうち、「7万5000強の兵が実際に南京付近に駐屯したとするのは疑わしい」として、南京にいた主力部隊は陥落前に重慶へ退却しており、戦闘中も逃亡する兵士は膨大におり、南京陥落を戦った中国軍は2万程度とした[42]

戦後の裁判と南京防衛軍の総兵力に関する諸説

東京裁判判決では、「中国軍はこの市を防衛するために約五万の兵を残して撤退した。1937年12月12日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、残留軍五万の大部分は、市の北門と西門から退却した。中国軍のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を捨て国際安全地帯に避難した」とあり、中国軍を約5万とする[43]

1984年、中国側公式資料集「証言・南京大虐殺」は、南京防衛軍は「退却時五万」とした[44]

1985年、孫宅魏は 当初の動員兵力10万余とした[45]

1988年、「南京防衛軍当初15万、虐殺8万説」(孫宅魏)説。

秦郁彦は台湾公刊戦史から「当初は10万、落城時は3.5万~5万」とする[46]。また「兵力計算を困難にする理由に、民兵の存在があった。正規兵はカーキ色のラシャ制軍服を着ていたが、戦闘直前にかき集めた予後備兵、少年兵をふくむ民兵は濃緑色の綿製軍服を着用、なかには私服のままの者もいた。局面によっては、正規兵よりも民兵のほうが多く、とくに難民区に逃げ込んだ者は民兵が主体だったようだ、という参戦者の証言もあるが、中国側が主張する兵力数に、この種の民兵が含まれているかはたしかでない。」と述べている[46]

孫宅巍は、南京衛戍軍参謀第一科長譚道平の証言から、総兵力は81000人(戦闘兵49000、雑兵32000)で、犠牲は36,500人とする[47][31]。南京戦史はこの「雑兵」は後方支援兵力か、民兵隊を指すのか判然としない、また71軍(87師)6500、83軍5500という兵力は、鎮江戦当時はともかく12月7日以降の南京に到達した推定としては過大と指摘[48]

笠原十九司は、「最高時の南京防衛軍の編制は約15師相当の部隊よりなり、総兵力は10万以上と言う事である。数としては、11~13万という数字があげられている。ここではひとまず10数万という言い方をしておく。ここで問題になるのは、この防衛軍総数に中国で、雑兵、民夫、民工と呼んだ後方(勤務)部隊の兵数がカウントされているかどうかである。南京防衛に参加した第71軍第87師所轄の第261旅旅長・陳頤県から筆者が直接聞き取りをしたときの話では、当時国民党軍の一旅は7000の兵員からなり、戦闘兵が5000人、運送などにあたる後勤部隊が2000人とのことであった。そして中国では一般に(日本軍と違って)後勤部隊を兵数に数えないとのことだった。上記(国民党)の資料で「総兵力数」と兵力を明記している場合はおそらく(武器をもって敵と交戦できないという意味で直接の戦闘力にならない)雑兵の類をカウントしていない。したがって正規、非正規の後勤部隊の兵数を含めれば、南京防衛に動員された者の数は上記の数をさらに上回ることになる。(略)先の総兵力と次に述べた正規・非正規の軍務要員とされた軍夫・民夫を総計して、(孫宅魏の推定)約15万という数が、いまのところ妥当」とした[27][1]。また笠原は、「総数15万人の防衛軍のうち、約4万人が南京を脱出して再結集し、約2万人が戦闘中に死傷、約1万人が撤退中に逃亡ないし行方不明になり、残り8万人が捕虜・投降兵・敗残兵の状態で虐殺された」と推定する(撤退5万、戦死2万、虐殺8万)[49]

ただし、上述した譚道平、宗希濂の回想によれば、当初の防衛軍に支援部隊が到着したとあり、雑兵が含まれている[50][27][31]。また孫宅魏も「一方中国軍は、唐生智の率いる守城部隊が十五個師、およそ十余万人であったが、雑兵が多く、敵軍と直に戦闘できる兵隊は六割にすぎなかった。防衛軍全体の中で、まだ入隊したばかりの新兵が四割近くもしめていた」と、雑兵、新兵が多いと明記しており、雑兵を含めている[51]

なお、孫宅魏によれば、中国軍編成は、1個師団が二個旅(87師は3個旅)、四個団(連隊)と各一個営の砲兵、工兵、輜重兵よりなり、合計13個師団であった[52]。孫宅魏は一個旅団を平均約4400人、1個師団を1万923人とし、13個師団の合計14万1999人と推計する[52]。また一個団(連隊)2200人で、17個団の合計は3万7400人とする[52]。この編成で計算すると、陳頤県旅長の一個旅団7000人[27]では、一ケ師は二個旅団と一個連隊(砲兵、工兵、輜重兵など)の合計1万7500人となり、13個師団の合計が22万7500人になる。

森山康平は、中国軍の1個師団は5000人から1万で、日本軍の1個師団より小規模で員数もバラバラのケースが多かったとしている[53]

栄維木は、編成師団13個と連隊15個の総兵力は計15万[3]とした。

南京衛戍軍の総兵力と南京陥落時の兵力(人数順)
総兵力 出典 備考
約11万。
当時の公称では20万人
第36師第108旅第216団第一営長の欧陽午[27]
15個師団
11万〜15万人
笠原十九司[27] 5万が逃亡[49]
13個師団
14万1999人
孫宅魏[52]
当初20師団
陥落時8~9個師団で10〜13万
第16師団参謀長中沢三夫陣中日誌 [27] 当初は一師5000だったが1万に増加。
当初7万
援軍4万
合計約11万余人
第78軍・第36師長宗希濂[27]
約20個師団
10万人
上海派遣軍参謀長飯沼守陣中日誌1937年12月17日 日本軍が撃滅したのは約5万、海軍と第10軍の撃滅したのは約3万。ほか約2万は散乱した。
 10余万人(撤退時) 国民軍・劉斐、杜聿明、憲兵司令部戦闘詳報[27] 憲兵司令部戦闘詳報は、邑江門から10余万が退出したとする。
8万1000 国民軍参謀・譚道平[54][31]
15個師団
10余万人
孫宅魏(1985年)[51] 雑兵が多く、新兵が四割近くであった。
当初10万
落城時は3.5万~5万
台湾公刊戦史(秦郁彦引用)[46]
当初7万5000
陥落時は約2万
1937年12月17日 マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー
65,500〜7万500人 偕行社『南京戦史』[2] 鎮江-丹陽-東昌街付近をのぞく。軍、師別に兵力を積み上げて推計。
16個師団
約5万
ニューヨーク・タイムズ1937年12月22日、1938年1月9日。ダーディン記事 3万3000が殲滅、うち2万が処刑。中国師団は平均5000名編成で(8万)、痛撃を蒙っていたので2〜3000名編成の場合もあった。
5万 12月10日後のアメリカ大使館報告 陥落前に主要部隊は撤退し、人口の8割が市を脱出。
 5万 東京裁判判決
退却時5万 南京市文史資料研究会編(1984年)[55]



注釈

  1. ^ 将緯国将軍総編著「国民革命戦史第三部・抗日禦侮 第三巻」「第八章野戦戦略」に、「上海から撤退して南京に来た約14個師(すべて残存部隊)の兵力」とある。
  2. ^ 「計八~九師、当時の一師は五千位 のものなるへきも是等は首都防衛なる故かく甚しき損害を受けぬ前に充たしたと見るへく一万ありしものとすれは、八~九万。以前軍第二課の調査によれは、以上の師団等を併せ二〇師に上がりるも、是等は各所より敗退し来たりて以上の基本部隊中に入りしものなるへし、之か一〇師分ある故二~三千と見て二~三万、総計一〇~十三万の守備兵力なるへし」
  3. ^ a b (南京占領前に)中山陵公園内の兵舎、官舎、近代科学兵器学枚、農事研究実験所、警察訓練学校や住宅を含む郊外のほぼ全域に放火し、下関、交通部も放火したが、「日本軍は立派な建物を破壊するのは避けた模様だ。占領にあたって空襲が少なかったのは、建物の破壊を避ける意図があったことを示している。日本軍は、建物のたてこんだ地域に集まった中国軍部隊でさえも、爆撃するのを避けているが、建物の保存を狙っていたのは明らかだ。」とし、中国軍の放火による被害は「南京攻撃中の爆撃の被害や市占領後における日本軍部隊による被害に匹敵する」と報じた[152]
  4. ^ 日本軍の入城式の場でも住民が「しょうがない」と歓迎の手旗をふったことがあった、と証言している[116]
  5. ^ パラマウント社カメラマンのアーサー・メリケンとニューヨーク・タイムズのテールマン・ダーリングによると南京市内の水道は12月9日、電気は12月10日に利用できなくなった[129]
  6. ^ 飯沼守日記「今日午後ソ連大使館焼く、此処は日本兵決して入り込まさりし所なれは証拠隠滅のため自ら焼きたるにあらすやと思わる。 他の列国公館は日本兵の入り込みたる疑いあるも番人より中国軍隊の仕業なりとの一札を取り置けり。」[133]
  7. ^ 松本重治『上海時代(下)』(中央公論社・1974、p245-249)では訓示を入城式の翌日の1937年12月18日の慰霊祭においてのものとするが、2月7日の間違いである[141]

出典

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