北魏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 16:53 UTC 版)
美術
3代太武帝による廃仏ののち、歴代の皇帝は仏教を篤く信奉し、5世紀末から6世紀初めには雲崗や龍門といった巨大な石窟寺院が開かれ唐代と並ぶ中国仏教の最盛期を迎えた。第4代文成帝が僧官曇曜(どんよう)の建言によって平城近郊の岩場に建立した、いわゆる「曇曜五窟」(雲崗石窟の第16-第20窟)では、肉体や衣服の表現にガンダーラ美術・グプタといったインド仏教美術の影響が色濃く残っている。
石窟寺院では洞窟の内部に仏像や仏塔を彫り、周囲を壁画やレリーフで装飾する伽藍形式が広く隆盛し、仏教文化は中国に広く浸潤していくこととなった。
第6代孝文帝は洛陽に遷都すると急速な漢化政策を推し進め、洛陽郊外に龍門石窟を造営した。龍門石窟には北魏代のものと唐代のものが存在するが、北魏代の伽藍である賓陽中洞では、漢風の伝統が重んじられ、細く切れ長の目やなで肩、首のたるみなどといった象徴主義的な表現が見られるようになる。写実性を排した中国風の仏像はここに完成を見、広く東アジア諸国に伝播していった。日本ではこの様式を特に「北魏様式」という。
日本との関わり
北魏と日本文化との間には数多くの関連があることが指摘されている。
- 福岡県(筑紫国)の霊泉寺(英彦山)は、531年(継体天皇25年)に北魏の善正上人が創始したものである。
- 伊東忠太によれば、法隆寺の仏像など、日本に残存する諸仏像は多く北魏様式である。法隆寺は元は百済様式であったが、壬申の乱の時期に火災を被り、再建後には北魏様式となった。
- 杉山正明によれば、日本の源氏という皇別氏族の興りは、北魏の太武帝が同族の源賀に源姓を名乗らせたことに影響された可能性がある。
- 北魏の国家体制は、日本古代の朝廷の模範とされた。このため、北魏の年号・皇帝諡号・制度と日本の年号・皇帝諡号・制度には多く共通したものが見られる。平城京・聖武天皇・嵯峨天皇・天平・神亀など、枚挙に暇がない[16]。
行政区画
北魏には113の州があり、州の下に郡があり、郡の下に県がある。
- 河北地域
- 司州、定州、冀州、并州、瀛州、殷州、滄州、肆州、幽州、晋州、懐州、建州、汾州、東雍州、安州、介州、南汾州、南営州、燕州、営州、平州、恒州、朔州
- 中原地域
- 雲州、蔚州、顕州、廓州、武州、西夏州、寧州、霊州、兗州、青州、斉州、鄄州、済州、光州、梁州、豫州、北豫州、徐州、西兗州、南兗州、広州、膠州、洛州、南青州、北徐州、北揚州、東楚州、東徐州、海州、東豫州、義州、潁州、譙州、北荊州、陽州、南司州、楚州、合州、霍州、睢州、南定州、西楚州、蔡州、西淮州、揚州、淮州、仁州、光州、泰州、蒙州、南建州、沙州、北江州、湘州、汴州、財州
- 西部地域
- 雍州、北雍州、岐州、秦州、南秦州、南岐州、東益州、益州、巴州、梁州、南梁州、東梁州、涇州、河州、渭州、原州、涼州、鄯州、瓜州、西涼州、華州、北華州、豳州、夏州、東夏州、陝州、洛州、荊州、襄州、南襄州、南広州、郢州、南郢州、析州
- ^ a b 三崎 2002, p. 146.
- ^ a b c d e f g h 三崎 2002, p. 147.
- ^ a b c 三崎 2002, p. 105.
- ^ 三崎 2002, p. 104.
- ^ a b 三崎 2002, p. 106.
- ^ a b c 三崎 2002, p. 148.
- ^ 三崎 2002, p. 116.
- ^ a b 三崎 2002, p. 117.
- ^ a b c d e f g 三崎 2002, p. 149.
- ^ 三崎 2002, p. 110.
- ^ a b c d e f 三崎 2002, p. 150.
- ^ a b c 三崎 2002, p. 126.
- ^ 三崎 2002, p. 139.
- ^ 三崎 2002, p. 209.
- ^ a b c 三崎 2002, p. 211.
- ^ 福永光司『「馬」の文化と「船」の文化』(新装版)人文書院、2018年(原著1996年)。なお、拓跋力微の諡号が聖武帝、嵯峨は騎馬民族の聖地の名、天平・神亀は同一年号が北魏と日本にある。
- ^ 三崎 2002, p. 175.
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