侯景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 00:02 UTC 版)
宗室
妻妾
男子
- 侯和(? - 548年、東魏で処刑された)
- 4人の男子(北斉で処刑された[注釈 2])
- 2人の男子(南朝梁で生まれ、552年に侯景の手で殺された)
女子
- 548年、東魏で奴婢に落とされた
脚注
歴史資料
参考文献
- 竹田龍兒「侯景の乱についての一考察」三田史学会、『史学』29巻3号、1956年
- 塚本善隆編『世界の歴史 4 唐とインド』中央公論社、1961年、pp. 248–254。中公文庫、1974年
- 川勝義雄「侯景の乱と南朝の貨幣経済」『東方学報』京都第32冊、1962年
- 川勝義雄『中国の歴史 第3巻 魏晋南北朝』講談社、1974年
- 『魏晋南北朝』講談社学術文庫、2003年
- 吉川忠夫『侯景の乱始末記』中公新書、1974年
- 『侯景の乱始末記 南朝貴族社会の命運』志学社選書(増補版)、2019年
関連作品
- 田中芳樹『長江落日賦』 徳間書店 1992年、祥伝社文庫 1999年
関連項目
外部リンク
注釈
出典
- ^ a b 『梁書』侯景伝。それによると後漢の侯覇・侯昱父子の末裔で、西晋の侯瑾の7世の子孫として記されている。
- ^ 原文:「景祖名乙羽周、及簒以周為廟諱、故改周弘正、石珍姓姫焉」(『南史』列伝第七十 賊臣)
- ^ 『陳書』殷不害伝
- ^ a b c d e f g h i 竹田1956
- ^ 孝文帝、漢化政策も参照。
- ^ 『資治通鑑』巻161「景乃詐為鄴中書、求以貞陽侯易景;上将許之。舎人傅岐曰:「侯景以窮帰義、棄之不祥;且百戦之餘、寧肯束手受縶!」謝挙・朱異曰:「景奔敗之将、一使之力耳。」上従之、復書曰:「貞陽旦至、侯景夕返。」景謂左右曰:「我固知呉老公薄心腸!」」
- ^ 『資治通鑑』巻162「三月、丙辰朔、立壇於太極殿前、告天地。以景違盟、挙烽鼓噪。初、閉城之日、男女十餘萬、擐甲者二萬餘人。被圍既久、人多身腫気急、死者什八九、乗城者不満四千人、率皆羸喘。横屍満路、不可瘞埋、爛汁満溝、而衆心猶望外援。」
- ^ 『世界の歴史 4 唐とインド』pp.248-254
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