侯景とは? わかりやすく解説

侯景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 00:02 UTC 版)

侯 景(こう けい)は、中国南北朝末期の武将。侯周(乙羽周中国語版[2] の孫で、侯標中国語版の子[1]侯景の乱の首謀者。漢を建ててその皇帝に即位したものの、わずか在位5カ月で殺害された。


注釈

  1. ^ 宇宙はこの時代の定義では時間空間(『淮南子』に「往古来今謂之宙、四方上下謂之宇」とある)、六合(りくごう)は天地および四方を意味する。つまり、過去と未来、世界全ての時空を意味する。
  2. ^ 北斉の文宣帝は猴が御床の上に座った夢を見た[要説明]。結局、侯景の4人の残された息子は皆釜茹で処刑された。

出典

  1. ^ a b 梁書』侯景伝。それによると後漢侯覇・侯昱父子の末裔で、西晋侯瑾の7世の子孫として記されている。
  2. ^ 原文:「景祖名乙羽周、及簒以周為廟諱、故改周弘正、石珍姓姫焉」(『南史』列伝第七十 賊臣)
  3. ^ 陳書』殷不害伝
  4. ^ a b c d e f g h i 竹田1956
  5. ^ 孝文帝漢化政策も参照。
  6. ^ 資治通鑑巻161「景乃詐為鄴中書、求以貞陽侯易景;上将許之。舎人傅岐曰:「侯景以窮帰義、棄之不祥;且百戦之餘、寧肯束手受縶!」謝挙・朱異曰:「景奔敗之将、一使之力耳。」上従之、復書曰:「貞陽旦至、侯景夕返。」景謂左右曰:「我固知呉老公薄心腸!」」
  7. ^ 『資治通鑑』巻162「三月、丙辰朔、立壇於太極殿前、告天地。以景違盟、挙烽鼓噪。初、閉城之日、男女十餘萬、擐甲者二萬餘人。被圍既久、人多身腫気急、死者什八九、乗城者不満四千人、率皆羸喘。横屍満路、不可瘞埋、爛汁満溝、而衆心猶望外援。」
  8. ^ 『世界の歴史 4 唐とインド』pp.248-254


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